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白川勝彦にみる「代議士の誕生」(前編)

08年08月20日

No.906

この永田町徒然草をほぼ毎日みる方は、1万数千人いる。その内、私が直接お付き合いのある方は数千人に満たないと思う。私を直接知らない方にとって、“白川勝彦”という人物は理解し難いところが多いと思っているのではないだろうか(笑)。そもそも人間とは理解しがたい存在である。政治家という人種は特にそうだ。

政治家は他人に自分を印象付けなければ選挙で勝つことができない。そのために自分のある部分を印象付けようとする。普通の人と同じように他人と付き合うことはできない宿命にある。虚飾ではないが、特殊の生き様を強いられているのである。その習性は、選挙に出る気などない現在の私にも多分に残っていると思う。

この永田町徒然草は、文字通り“徒然”な政治的な書き物である。話があっちに飛んだかと思うと急に真面目にもなる。私はこれまでのどの時期よりも“政治的に自由”に生きている。それだけにブレが大き過ぎて付き合いかねるという方も多いと思う。しかし、爺(じじ)放談をしているのではない。私は至って真面目なのだ。私の政治家の生き方の原点を論究するある“書き物”を最近手に入れた。この論文を書いたのは、私の最初の選挙(昭和51年)の1ヶ月前に出会った田中克人(かつんど)氏である。私の政治生活をいちばん長く知っている人である。昭和54年暮れに発刊された雑誌に掲載された。

      白川勝彦にみる「代議士の誕生」

            国民政治研究会事務局長  田中克人

「ゼロからの出発」

世襲・官僚・地方議員・議員秘書・政党職員・労働組合幹部・タレントといった具合に、国会議員候補者は、回を追うごとにパターン化される傾向にある。これに加えて時折り金権候補が顔を出し選挙戦を白熱化させるのだが、候補者の第一のイメージは、この〝前職″によって生まれる。そして、このイメージを変え、新しいものをつくることは大変むずかしい。従って候補者はこのイメージをフルに活用し、いかに自分はその前職において実績を上げたか、また候補者としてふさわしいかをあの手・この手を使って選挙民に訴える。

第35回総選挙でこうした風潮に挑戦するかのごとく、パターン化されない新人、しかも〝永田町″をまったく知らなかった男が、若い同志の力・年輩者の知恵にバックアップされて4年間、雨の日も、風の日も、雪の日も毎日街頭からまた集会場から、「日本の夜明けは新潟4区から」と訴えて、2回目の挑戦で見事、登院してきた。その名は、白川勝彦・年齢34歳、学歴は東大卒、職業は弁護士、加えて独身である。

白川は、新潟県十日町市の中程度の機屋(絹織物業者)の出身で、姉さんが7人兄さんが1人の次男として、末っ子として、昭和20年6月に生まれた。中学1年のとき、家は倒産、多感な時期を貧乏のどん底で過ごし、奨学金のおかげでようやく高校へ進学でき、東大法学部へと苦学しながら進んだ。高校2年のとき、新潟県からただ1人ロータリーの交換留学生に選ばれ約2ヶ月アメリカ留学を果たし見聞を広めた。

東大時代は駒場の寮に入り、2ヶ月後駒場寮の副委員長となり以後、都寮連・全寮連書記局、東大豊島寮委員長として活躍、在学中司法試験に合格、司法修習生を経て、昭和47年より東京にて弁護士。

昭和50年10月14日、東京の弁護士事務所を閉鎖し、郷里、新潟4区へ帰る。所持金38万円なり。周囲の人びとの反対を押し切って、帰郷の5日後、地方紙を通じて出馬表明、まさに「ゼロからの出発」であった。従来の常識からいえば、まさに泡沫候補の誕生ということになる。地盤、看板、カバン、評判という選挙に必要な「四バン」のどれ一つとってもゼロなのだから。

彼はまず出馬表明後集まって来た友人、地域の青年を中心とした約30名の最初の同志とともに帰郷、20日目に第1回の演説会を開催する。誰も政治活動の経験がないので白川が陣頭に立って会場、ポスター・ビラの手配をした。集会はものめずらしさも手伝って500人を集め大成功。自信をえてそれから1ヶ月くらいの間に出身地の十日町市、中魚沼地方で20ヶ所ぐらい、つぎつぎと演説会を開催するというかなり精力的なスタートであった。

青年同志も50人位にふえ、街宣車のスピーカー、ガリ版印刷機など必需品は各自どこからともなく調達してきて、徹夜で演説会用のポスターやビラを印刷し、翌日は集会予定の地域へ一戸、一戸個別訪問して配って歩いた。注目すべきことは、ビラがガリ版刷り、ポスターはすべて手書きということである。演説会が終わって事務所に帰ると反省会、そして翌日の準備と休むひまなく続けられた。

12月からはさらに拍車がかかり、夜1回だけ行なってきた演説会ではスケジュール的に間に合わないということで午前1回、午後2回、夜1回と4会場をこなすことが多くなってきた。夜の演説会と翌日の準備は同志が仕事を終えてから手伝ってくれたが、午前と午後の集会は仕事があるので、彼自身街宣車を運転し、演説会の会場案内から、会場設営、さらに司会、演説、後援会入会のお願いまで一人でこなしたこともめずらしくなかった。

この時期は、ものめずらしさも下火になっていたこと、雪国新潟の厳寒の時期でもあり、聴衆の入りは、5~10名くらいのときがいちばん多く、3人くらいのときもあった。彼にとってこの12月から2月頃がもっとも精神的には苦しかったときではなかっただろうか。彼はどんなに少ない聴衆のときでも1人で1時間半くらい演説をした。聴衆が恐縮して座談会みたいでよいといっても、演説は政治家のいのちですからといって通した。このことが結果的には年輩の支持者をえる結果につながり、のちにこの時期の人びとが有力な後援会幹部となっていった。

新潟4区は定数3名で自民2、社会1の割合できている。自民党、大竹太郎(4区きっての大会社社長・中曽根派)、高鳥修(町長・県議出身・田中派)、社会党、木島喜兵衛(日教組出身)の現職組、これに自民元で知事の子息、塚田徹(二世・福田派)、共産党の須藤友三郎が常連。これに白川が初挑戦する。どう見てもうしろだてのない白川に勝ち目はなく、誰の目にも泡沫候補として映っていたとしても不思議ではない。

しかも、新潟4区は頸城山脈によって大きく二分される。白川の出身地である十日町・中魚沼地方と旧直江津と旧高田両市が合併して生まれた上越市を中心とする上越地方とである。票の分布から見ると十日町地方6万票に対して上越地方24万票と4倍の違いがあり、これを反映して十日町地方からは、戦後間もなくの選挙のとき1人代議士が出たことがあるだけで、以後は皆無であり、白川を除く他の候補はすべて上越地方の出身者ばかりである。

このあたりを十分考えた結果であったろう、帰郷してすぐ上越市に「白川勝彦政治・法律総合事務所」を開設しているが、運動の中心は縁故のある十日町地方に集中せざるをえない。「十日町から代議士を!!」という呼びかけは、好感を持って受け入れられ、十日町地方では序々に白川を応援する人は多くなっていった。

いちおうのメドのついた51年2月から、大票田の上越地方への本格的な切り込みを開始することになったが、兄の援助と弁護市活動の収入に頼ってきた資金が行き詰まり、彼にとっては経済面でいちばん苦しい時期となる。奉加帳をまわし資金カンパを確保した上で、上越進攻をすべきだという考えと、青年同志の力で何とか切り抜けたいという2つの意見が出たが、彼は資金は活動をしていてはじめて集まるものであるとの持論を押し通し、同志のカンパでまず必死の活動を始める。

にもかかわらず、予想したこととはいえ、上越地方の反応は冷たく聴衆も10~20人くらい。しかし若い同志は、十日町のガリ版印刷工場と化した事務所から毎日、手づくりのガリ版刷りのビラを持ってきて、各戸配布をこつこつと続ける。こうした青年たちの上越での活動に、十日町の年輩の人や地域の有力者たちがようやく腰を上げ、後援会結成の話しが急速に高まり、4月に十日町・中魚沼から800名が参加して発会式が行なわれた。会長・山内正豊(十日町市商工会議所会頭・十日町新聞社社長)、副会長・越村勝治(十日町市市会議員)、幹事長・星名甲子郎(十日町機会㈱社長)というそうそうたるメンバーがそろった。

白川を中心とした地元青年の半年の運動は、ようやく日の目を見、「十日町から代議士を!!」の呼びかけに大きな〝こだま″が返ってきた。青年同志も、この頃になると白川とのふれ合い、議論のなかで切磋琢磨され、以前にもまして自信にあふれていた。白川は同志を単に選挙のためと考えていない。地域社会の立派な指導者になって欲しいと口ぐせにいっている。だから無理も平気で頼む。同志もそうありたいと一所懸命に頑張る。他に見られない関係にまで育ってきていた。

この後援会の発足は当初の精神的・経済的不安をふきとばし、本来の政治活動に白川を没頭させた。青年同志も自信をえて後援会の拡大活動に専念するようになり、急速に組織は拡大していった。51年9月9日、選挙が目前という情勢のなかで、十日町市体育館で後援会の総決起大会を開催、2000名の予定に対し、台風の影響による豪雨のなかにもかかわらず、じつに4350名という多くの人の参加を得、会場はあふれんばかりの熱気。そのなかで31歳の白川は「日本の夜明けは4区から。努力する者が報われる社会を」と訴えた。ゼロから出発してわずか11ヶ月、1人の無名の青年が、4000人を超える後援会の総決起大会を持つことができた。何が彼をここまで引き上げてきたのか。 <つづく>

  • 08年08月20日 01時17分AM 掲載
  • 分類: 1.徒然

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