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戦後政治と憲法(その2)

07年08月17日

No.521

<永田町徒然草No.521からつづく>昭和憲法の価値観を最初から否定したり、嫌悪感をもっている右翼反動が自由主義的な秩序を解しないことは論ずる必要もないであろう。しかし、護憲勢力と呼ばれる人たちは、昭和憲法を守ろうとしているのである。そうであるにもかかわらず自由主義を理解できないのは、自由主義的な秩序ということがきわめて難しい概念だからである。

自由主義の政治思想は、厳然として確立されている。あらゆる政治思想は、最良の秩序をどうやって形成していくかを提示しようとしている。しかし、国民の自由闊達な活動を保障することと最良の秩序の形成とは、そう簡単には結びつかないのである。もっと根源的な疑問を呈するとするならば、自由主義の政治思想はそれ以外の政治思想を倒すことには成功したのかもしれないが、まだ完全な形ではその姿を実現していないからなのであろう。

俗ないい方をすれば、社会党や共産党は東側陣営の国々(具体的にいうならばソ連や中国)を理想の国と考えていた時代があった。語弊があるとすれば、これらの国々にシンパシーをもっていた。しかしながら、東側陣営の情報は少なかったもののソ連や中国の経済がうまくいっていないことは徐々に明らかになっていった。またこれらの国々では個人の人権が著しく制限・弾圧されていることも知られることとなった。

そして残念なことだが、共産党や社会党の中でこれを構成する人々が個人として尊重されていないということも知られることになった。政党にはそれぞれの言い分があるだろうが、その政党の組織原理はその政党が政権をとった場合国民にも強制されることになると思うのは当然であろう。いかなる主義主張をもつ組織であろうが、その組織を活性化させるためには自由主義的に運営するのが一番なのである。しかし、自由主義と相反する主義主張をもつ最高指導者を戴く組織がそのような運営をできる筈がない

右も左もぶった切る乱暴な論法だという人が多いであろう。それでは昭和憲法を本来守るべき責任があった自由主義者はどこで何をしていたのだろうか。狂信的かつ絶対主義的な神権天皇制や軍事的ファシズムと一体となった偏狭な国粋主義が支配していた戦前のわが国で、自由主義者や自由主義的風潮が窒息させられていたのは厳然たる歴史の事実である。自由主義を学ぶことも自由主義者として自己を確立することも、厳しく抑圧されてきたのが戦前の日本であった。わが国にきわめて自由主義的な昭和憲法が制定されたとしても、自由主義者が澎湃と出現し、自由主義的風潮が一世を風靡することが少なかったとしてもやむを得ないのではないだろうか。

政治的に自由主義者の活動を困難にしたのが、1955年(昭和30年)に結成された自由民主党が自主憲法制定を党の課題として掲げたことであった。共産党も社会党も党の綱領的文書に社会主義を掲げていた。自由主義者としてはこのような政党に加入する訳にはいかない。しかし、憲法改正を党是とする自民党の中で憲法改正に反対や慎重の態度をいうと社会党や共産党に同調するようにみられてしまうのである。私が自民党所属の国会議員になったのは1979年であるが、昭和憲法が制定されて30年余が経ち完全に定着しているのに同じような不都合を感じなければならなかったのである

以上を要すると、戦後の政治の流れの中に昭和憲法を中心になって守らなければならない責任と役割がある自由主義者の居場所がなかったということである。その結果、昭和憲法を守る運動の主体は社会党・共産党を中核とする革新勢力に依拠せざるを得なかったのである。その本質がどうであれ、自由民主党という政党が昭和憲法を改正すると唱え、かつこの政党が政権党であったことは昭和憲法にとって不幸なことであった

下世話なたとえ話で恐縮だが、昭和憲法は生まれながらにして政権党である父親には非嫡出子扱いされ、血の繋がりのない継母に可愛がられるという皮肉な運命を辿らざるを得なかったのである。昭和憲法はこのように政治的に不遇な環境に置かれたのだが、改廃されることもなく順調に定着してこれたのは、第一に衆参両院の総議員の3分の2以上の賛成がなければ国会として憲法改正案を発議できないという憲法96条の規定があったからである。護憲政党は戦後一貫して衆参両院の3分の1以上の議席を確保していた。

もうひとつの理由は、昭和憲法が素朴に多くの国民から支持されていたからである。明治憲法下では、国民の自由が粗末に扱われたことを知っていたからである。国民の自由が奪われ、何らの抵抗も許されない中で侵略戦争に動員されていった。そして多くのアジアの人民を殺戮し、最後には自国民の多くが殺されていった。戦争に敗れ、焼け野原になり、すべてを失った国民にとって戦争を放棄した憲法9条はわが国の大きな希望だった

わが国は武力ではなく文化によって幸せな日本を作ることを決意した。私は子供心に“文化国家”という言葉に希望を感じた。文化と文明とは多くの点で重なり合う。経済の発展ということも武力の領域ではなく、文化・文明の領域に属するものであろう。文化・文明への信奉が戦後の日本を精神的に支えた。しかし、物質文明という言葉があるくらいだ。世界の奇跡と呼ばれた復興を成し遂げたわが国は物質文明万能に陥り、その基底となった文化・文明を忘れてしまったような気がしてならない。

戦争の実体験をもった多くの人々が少なくなり、自由を奪われた不幸な歴史が忘られはじめたとき、若い右翼反動の首相が登場し、憲法改正を内閣の課題とするといいだした。内外の歴史をみるとこれはよくあるケースである。これを阻止できるかどうかは、文化力・文明力である。民主政体の下における政治は、紛れもなく文化・文明の領域の属するものである。憲法改正をまだ執拗に叫ぶ安倍首相そして彼を許容している自公“合体”勢力を打倒できるかどうかは、国民の文化力・文明力が問われているのである。

それでは、また明日。

  • 07年08月17日 12時10分AM 掲載
  • 分類: 5.憲法問題

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