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政権選択の自由の有無とその必要性

13年06月20日

No.1583

主権在民と民主主義

主権在民とは、文字通り国民主権のもうひとつのいい方である。これに対して民主主義は、どういうことをいう言葉なのであろうか。民主主義が democracy の訳語であることには争いがない。古典ギリシア語のデモス(demos、人民)とクラティア(kratia、権力・支配)をあわせたデモクラティア(democratia)がデモクラシーの語源である。そうすると民主主義と主権在民は、本来はほとんど同じ意味ということになる。

主権を国民がもつということは、わが国ではたいへんな出来事だったのである。これはわが国だけではない。それまでの主権者であった王や君主から権力を奪い取るということは、どこの国でもたいへんな出来事だったのである。フランスでは、フランス革命によって人民ははじめて主権を手にした。アメリカでは、イギリスとの独立戦争を行うことによって人民は主権を手にした。民主制という概念が、君主制の対立した概念として存在するのはそのためであろう。

君主制を否定する概念としては、共和制(republic)という言葉もある。幕末には democracy や republic をどちらも「共和」と訳されたが、あながち間違いとはいえないのではないかと私は思うのである。かつてのソ連の正式名称は、ソビエト社会主義共和国連邦である。中国は中華人民共和国、北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国がいずれも正式名称である。これらの国々の「共和」は、君主制ではないということをいいたかったのであろう。確かにわが国のような天皇はいないが、これらの国々が民主的国家であるかどうかとなると話は別である。独裁的な権力をもった党や人物が存在している。

主権者としての実体験は?

前号で詳しく述べたように、主権者の最初にして最大の任務は、国家の秩序を創生することである。秩序のない国家というものは、最悪の国家である。私はかつてハイチ共和国に行ったことがあるが、その時のハイチは財政難のために軍隊はもちろん警察機構まで崩壊してしまい、他国から派遣された“多国籍警察"が治安の維持にあたっていた。「いかなる悪い政府も、無政府状態よりましである」という、イギリスのカムデン卿の箴言を噛みしめた。だからといって私は独裁国家を容認する者ではない。自由主義者として、私は独裁的なるものに生理的な反感さえ覚える者である。私はアンチ独裁である。

話がいきなりあっちこっちに飛んだのは、私たちが国民主権という昭和憲法の原則を考える上で、問題の所在を明らかにしたかったからである。

私たちは、「それは民主的でない」とか「政府・自民党のこのような行動は、民主主義に悖るものである」とよくいう。その時、私たちは「民主」という言葉にいかなる思いを込めてそういうのであろうか。主権をもっている自分の意に沿わない場合であることは明らかである。しかし、そのような行動を行う者もまた主権をもつ者なのである。主権と主権がぶつかり合っているのだ。主権をもった者同士の対立は、最後は多数決で決めるしかないということもまた民主主義といわれる。

こうなってくると国民主権とか民主主義ということがますます分からなくなってくる。外国の事情は詳しく知らないが、わが国で言葉だけ捉えてみてもいろいろと錯綜しているのは、わが国の国民が主権者としてその権利を行使した実体験がないことに起因するのではないかと思わざるを得ないのである。

万能ではない選挙という手法

“何を失礼な”という反論が多方面から飛んでくることは百も承知である。しかし、自説にこだわるつもりは毛頭ないが、問題点の所在を明らかにするためいましばらく“日本国民は、主権者としての権利を行使した経験がない”という前提に立って論を進めてみたいと思う。

民主主義の政治とは、治められる者が同意をしかつ納得をしている統治が行われていることといわれている。難しい言葉でいうと、民主主義とは被統治者の同意ある統治といわれている。民主主義の政治といえども、国家存立の最低限の秩序を作らなければ政治と呼べなくなる。 秩序を作ることは、被統治者の同意などなくても作ることはできる。軍事政権などには、被統治者の同意や納得はないが、秩序だけはある。秩序があることを素晴らしいと思う者もいる。わが国の右翼反動と呼ばれる政治家たちは、こういう風に考える者が間違いなく多い。官僚たちもおおむねこのように考える者が多い。古今東西、これは官僚という人種の特質であろう。こうした考えをもつ者は、どちらも統治する側に立つ者である。

しかし、統治される立場の国民は、秩序も大切だが統治の実態に納得がいかなければ統治に同意することはできない。同意できない統治には、反乱が起こる。暴動という形をとることもあるし、非協力という統治の基盤を危うくする形もある。

被統治者の不満をなくするもっとも簡単な方法は被統治者全員を統治者にすることだが、それは現実の問題として困難である。そこであみ出されたのが、“選挙”という手法である。選挙には、大きく分けて統治者を選出するというものと統治内容を決めるというものがある。後者は国民投票あるいは住民投票である。わが国には住民投票という制度はあるが、国民投票という制度はない。だから現在のような状態が起こるのである。郵政民営化に賛成ということで投票した自公“合体”政権の与党議員は、郵政選挙では争点にならなかったことまで圧倒的多数を嵩にきて次から次へと実行していくのである。

統治者と国民との距離

被統治者が統治に同意や納得ができるようにするために、最も効果があるのは統治者を自ら選べることである。そのようなシステムがあるかどうかということである。先に挙げた共和国では、選挙は行われているがその実態には問題がある。だからいずれも民主主義国家とはみなされていない。

わが国はどうであろうか。地方選挙では、地方自治体の首長を直接選挙している。国政では、国民は総理大臣を直接選ぶ権利は与えられていない。国民が選ぶのは、総理大臣を選ぶ権利のある議員を選ぶだけである。憲法制定当時は議員だけを選ぶ選挙だったが、参議院に比例代表制度が導入されて以来、衆議院にも比例代表制が導入され、現在では総理大臣を選ぶ議員だけではなく政党も投票する選挙となっている。このため実際に統治者として選ばれる総理大臣と国民との距離は以前より広がってしまった。わが国では総理大臣が誰になるのか、国民には本当のところ皆目見当がつかないのである。衆議院議員総選挙の時は、それでも誰を総理大臣にする選挙なのか分かるが、その総理大臣が辞めた場合、与党の党内力学で誰になるかは国民には分からないのである。

自由主義の政治にとって、党を選ぶのか特定の人物を選ぶのかということは特に大きな意味をもっている。自由主義は、熱い血の通った人間に最大の価値をおくという考え方だとこれまでも何回か述べてきた。必然的に自由主義の政治は、統治者の人間性に最大の関心を求めることになる。被統治者と統治者の距離がいちばん近くなるのが、統治者そのものを選ぶという方法である。自分が直接に選んだ大統領や首相が見込み違いだったとしても、自業自得と諦めるということで納得できるからである。それも統治に対する同意という面からは大きな要素である。自由な結婚をした夫婦がもっているのは、おおむねそんな理由からではないだろうか(笑)。

政権選択の選挙?

統治者は、特定の人間である。権力者一般はというもは存在しない。また存在せしめてはならない。責任の所在が不明確になり、責任の追及ができなくなるからである。権力の行使は、その権力をもっている者の名義をもってなされなければならない。

わが国における権力の行使者は、最終的には総理大臣か内閣に対して責任を負う。任命権者は元を糾せば、総理大臣か内閣であるからである。地方自治体では首長である。逆にいうとあらゆる権力の行使に、総理大臣は責任がある。アメリカの大統領には、学級担任の先生に対する苦情も寄せられると聴いたことがある。直接選んだ大統領と国民との距離を示唆する話と私は受けとめた。

総理大臣を直接国民が選べるようにすることを首相公選制という。そのような制度を採用している国があるのかどうか知らないが、そのような制度がない国でも、実際は首相を選ぶ選挙になっていると私はみている。

ところで、わが国ではどうであろうか。衆議院総選挙は、政権選択の選挙であるといわれてきた。政権選択とは、誰を総理大臣に選ぶかということである。少なくとも、どの党に政権を託すかという選挙でなければならない。このようなことが主権者である国民に具体的に問われた衆議院の選挙というものが、かつて本当にあったのだろうか。

自民党にしてみたら、戦後行われてきた衆議院総選挙でそれぞれ政権を託されてきたといいたいところだろう。そういえなくもない。私もかつてはそう考え、かつそう主張してきた。しかし、厳密に考えれば、Aという人物を首相に選ぶか、それともBという人物を首相に選ぶかという緊迫した場面は、私が記憶があるようになってから1955年(昭和30年)以降はない。それは長い間、衆議院の選挙が世界でも珍しい中選挙区制の下で行われたことにもよるであろう。

※      ※      ※

自民党のAという人物を首相に選ぶ選挙と自民党が選出する人物を首相にするということは、同じではない。前者の方が、はるかに具体的である。その意味では、首相公選制を実施することは、政権を国民が直接選択する意味で大きな意義があると思う。昭和憲法の下でそれが可能のかどうかは議論のあるところだ。私はいろいろと困難な問題はあるが、検討する価値はあると考えている。

私が政権選択に関係すると思われる選挙は、1993年(平成5年)と1996年(同8年)の衆議院選挙である。

前者は非自民連立政権が産まれた選挙である。これは、中選挙区で行われた最後の選挙だった。私もこの選挙を自民党公認候補として戦ったが、少なくとも政権を懸けた選挙だったという実感はない。この選挙で、これまで自民党と対峙してきた野党第一党の社会党は大幅に議席を減らしている。自民党と激しく対峙してきた野党第一党が大幅に議席を減らした選挙を、政権を懸けた選挙と呼ぶことはできないであろう。

後者は、小選挙区で初めて行われた選挙である。自民党と新進党が政権を懸けて激突した。しかし、政権には埒外の政党がいくつか存在していたために、政権選択の選挙と多くの国民はこれをとらえなかった。私はこの選挙では自民党の総務局長をしていたので、その雰囲気をいまでもハッキリと記憶している。自民党がこの選挙で勝てたのは、新進党以外にそういう政党が立候補してくれたからである。

政権選択を国民に迫るためには、Aという人物かBという人物のいずれを首相に選ぶかという選択肢が国民に明確に提起される必要があろう。これがいちばん分かり易い。そこまでいかなくても、Aという政権とBという政権が具体的な選択肢として提起されて、はじめて多くの国民は政権を選択できるのではないだろうか。

政権選択の自由はあったのか?

1953年(昭和28年)サンフランシスコ条約の締結によりわが国が独立して以来、わが国に存在した大きな政党は自民党と日本社会党であった。社会党が中心になって野党連合を作ったとしても、冷戦下で実際問題として政権を担当できたかは疑問である。冷戦の縛りは、現在の私たちが考えるほど甘くはなかった。冷戦構造の下で、アメリカの支援を受けた自民党政権を倒すことができなかったとしても、野党だけを責める訳にはいかないと私は考える。

わが国に新しい憲法ができ、国民は自ら新しい秩序を作る権利をもち、またその義務を負った。しかし、完全に自由ではなかったのである。独立前には、GHQという強大な権力が存在していた。独立後は、冷戦の中で西側陣営の一員として存在することを義務付けられていた。逆にいうと自ら秩序を作らなくても、ひとつの秩序にアプリオリに組み込まれたために、わが国にはそれなりの秩序はあったのである。政権選択の自由も完全にはなかったし、無政府状態を自らの力で克服するという困難な仕事から免れてきたのである。

その秩序のひとつに天皇制の存続ということもあった。その結果、官僚制が温存されてしまった。官僚制は国家の仕組みとして必要悪として存在することは仕方ないが、1945年(昭和20年)まで存在した前近代的な官僚制がそのまま温存されたマイナスは大きい。

国民主権を否定しかねない自公“合体"政権

冷戦は終焉した。中国やインドやアセアン諸国などの経済的発展はめざましい。これらの国々との友好関係はわが国にとって“ヴァイタル”とさえいえる。その中で日米同盟と叫び、これを永遠不変の価値があるように考える自公“合体”政権の国際感覚は、異常でさえある。冷戦下でも、“ヴァイタルな二国間関係”というのが、日米関係の重要性を示す最高の表現であった。

選挙制度として小選挙区制には多くの問題があると私は思ってきた。かつて小選挙区制を熱心に主張した人も、最近の政治がおかしくなったのは小選挙区制だという。いまさらそんなことをいってもどうにもならない。小選挙区制に唯一評価するところがあるとすれば、それは政権党を追いつめ易いということである。せめて政権交代を一度くらいしなければ、小選挙区制を導入した意味がないというものであろう。

年金問題をみても、自公“合体”政権の政権担当能力がいい加減なことが明らかとなった。野党がちゃんとした政権構想を示せば、国民が自公“合体”政権を拒否し新しい政権を選択することも期待できる。政権交代は、わが国ではひとつの“革命”である。その革命を成し遂げることによって、国民は自らが主権者であることを実感できるのではないだろうか。

この“革命”をいま遂行をしておかないと、国民主権を保障した昭和憲法を否定されかねない。それが憲法改正を叫ぶ右翼反動・自公“合体”政権の本性である。

* この小論は、月刊誌『リベラル市民』平成19年7月号に掲載されたものである。

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  • 13年06月20日 12時22分AM 掲載
  • 分類: 5.憲法問題

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