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自由な国とは!?

07年11月22日

No.621

Googleで久々に「職務質問」を検索してみた。第一位はWikipediaの「職務質問」だが、依然として私の職務質問に関する記述が第二位にある。私の職務質問に関する記事は、私の体験談を書いたものであり、いわゆるノーハウものではない。特に「忍び寄る警察国家の影」はかなり長い読み物である。しかし、このページから私のサイトにアクセスする人が、いまでも毎日100人以上もいる。これは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか……。

いま全国で毎日多くの職務質問が行われている。私にいわせれば、その大半は職務質問に要求されるている要件がないものだと思う。細かい法律論は分からなくとも、多くの人々が不当と思い、不快感をもつのだろう。こういう人がGoogleで職務質問を検索し、私の記事を知り興味をもって読むのだろう。ただ実際には、ほとんどの人が不当もしくは不快に感じても、職務質問に応じているのだろう。職務質問でいちばん多いのは、私がやられたように「ポケットの中を見せてほしい」とか「カバンの中をみせてほしい」というものであろう。「怪しいものがなかったら、見せて下さい」というのである。これが「見せられないということは、怪しいものを持っているからでしょう。ますます見せてもらわなければなりませんね」となる。

多くの“善良”な人々は、「怪しいものをもっていないのなら警察に見せてあげればよいじゃないか」という。問題は、ここにある。しかも、その根は深い。自由主義国家における“国家と国民の関係”という基本に関する問題なのである。自由主義国家では、「国民は国家からも自由である」というのが基本である。「国民は国家からも自由である」とは、国民は理由がなければ国家に拘束されない」ということである。「拘束される」とは、身体の拘束=逮捕拘禁=身体検査されることだけではなく、経済的活動においても社会生活の上でも精神的にも拘束されないということである。国家がこの自由な活動を制限するためには、法律による根拠が求められる。

職務質問で警察官がいう「怪しいものがなかったら、見せて下さい」ということだが、“自分が怪しい者か、怪しい者でないか”を国民は国家に証明する義務はないという大原則に反することなのである。国家が「怪しい」とするならば、法律に基づいて「怪しいこと」を取り締まればよいのである。逮捕・勾留や脱税調査をすればよいのである。そのために法律は、いろいろな権限を国家に与えている。もちろん国民の自由を制限するのであるから、一定の要件が求められる。「怪しいものがなかったら、見せて下さい」ということは、この一定の要件を飛び越えて行うことなのである。突き詰めると、「国民は怪しくないことを自ら国家に証明しなければならない」ということになるのである。

刑事訴訟で、「“不存在の証明”はできない」という大原則がある。“○○でない”ということを証拠をもって証明することはできないということである。唯一の例外が“不在証明=アリバイ”である。犯罪が行われた日時・場所にいなければ、犯罪を実行することはできない。ただし共謀共同正理論を安易に認めれば、その場合でも“ない”ことの証明にはならない。共謀共同正犯を認めるかどうかは、刑法の共犯理論をめぐる大きな問題である。いま国会には、テロ対策の一環として自公“合体”政権が成立させようとしている「共謀罪法案」がある。わが国の最高裁は共謀共同正犯をみとめているが、それでもかなり厳格な要件が求められる。共謀罪法案は、それをズブズブに緩和しようとするものである。

閑話休題。なぜ国民は自らが怪しくないことを国家に証明する必要はないのか。それは自由な国家だからである。自由でない国では、国家が怪しいということで多くの国民を拘束したり、殺害してきた歴史があるからである。現在でも自由でない国では理由なく多くの国民が拘束されたり、殺害されている。自由な国であるということは、このようにきわめて重要なことなのである。多くの“善良”な人々のいう「怪しいものをもっていないのなら警察に見せてあげればよいではないか」ということは、自由な国の根本を否定することなのである。“善良”な人々に、本当にそれでいいのですかと私は問いたい。

治安が悪化している。重大犯罪が次から次と起こっている。だから警察がある程度強引なことをやっても仕方ないではないかという雰囲気がある。警察に協力しなければ治安を守ることも、重大犯罪を防止できないではないかという人は多い。しかし、治安が悪化し、重大犯罪が多発するようになった根本原因は、どこにあるのだろうか。それは政治が悪かったからであり、警察の捜査能力が劣化したからである。犯罪の最大の防止策は、昔も今も検挙率の高さである。わが国の警察の捜査能力は、なぜ劣化したのであろうか。次の私宛のメールを読んでいただきたい。

新潟県上越市出身 東京都在住の20代 会社員/女性です。「忍び寄る警察国家の影」を読みました。

今月初め、駅で暴行を受けましたが、警察の異常な対応に苦しみ、インターネットで辿り着いたのが、白川さんの論文でした。

警察との正しい対処の仕方、を学ばせて頂きました。しかし、「悲しい現実」が何の進歩もないまま、蔓延る日本、東京であることも痛感しました。事件後の私にとって、今まで全幅の信頼をおいてきた警察に裏切られたことは、立ち向かう気力も体力もそぎ落とされるほどの、精神的苦痛でした。昨日、苦痛から逃れたい一心で、正義の道をあきらめました。

そんな私に、先生の論文が語りかけてくれたかのように、感じました。本当にありがとうございました。今後も応援しています、がんばってください。

このメールの主の女性がどのような暴行を受けたのは定かでない。しかし、私の「忍び寄る警察国家の影」が何かの参考になったということは、警察の対応にかなり問題があったのだろう。私がもっとも着目している点は、「今まで全幅の信頼をおいてきた警察に裏切られた」というところである。不当もしくは不適切な職務質問を受けた多くの国民が抱く感情も同じであろうということである。なお、この女性の出身地は、私のかつての選挙区である。20代だそうだが、きっと子供ながらに私のことを知っていたのだろう。

“全幅の信頼”をもたれているから、警察は国民の協力を得ることができるのである。国民から信頼されない警察は、無力である。警察は権力の中の権力である。権力は自らの力を過信するものであるが、国民の支持のない権力など、無力なものである。私は政府=自民党と名実共にいわれてきた自民党に長く籍をおいた。選挙という洗礼を受けなければその籍に留まれない者だから、嫌というほどそのことを知らされた。国民の信頼を失ったとき、政党や政治家は権力の座から放擲される。警察の検挙率が下がるのは、選挙でいえば得票が減少しているようなものであろう。選挙では政権党が権力等であることを嵩にきれば、ますます逆効果になる。それは警察権力も同じである。

国家公安委員長のときから私の主張は一貫している。強い警察になるためには、国民から信頼される警察にならなけばならないということである。国民の警察に対する信頼がなければ、捜査についても国民の協力は得られない。国民の協力とは、捜査に関する情報の提供である。国民から情報を得られなければ、犯人を検挙することは困難となる。繰り返す。国民の信頼を失った権力は、無力である。わが国の警察は、国民の信頼を損なうようなことを日々平気で行っている。もっと悲しいことは、そのことにまったく気が付いていないことである。警察を政治的に指導すべき自公“合体”政権が同じなのであるから、仕方がない。自公“合体”政権がわが国を支配している弊害は、こうした面からみても大きい。

それでは、また明日。

  • 07年11月22日 07時59分AM 掲載
  • 分類: 5.憲法問題

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