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不倶戴天――野党の覚悟(その2)

07年06月25日

No.468

これからの政治家の一言半句は、すべて間近に迫った参議院選挙に直結する。現代の選挙は、槍や鉄砲で行うものではない。言葉を使った言論戦を行うのであるから、当然のことである。政治家の一言ひとことは、矢であり、弾丸である。また言論を発するそのスタイル・パフォーマンスも重要な要素である。自公“合体”政権を倒そうとする野党には、この政権を倒さなければならないのかという不退転の雰囲気がなければならない。これからは、野党の覚悟ということを折に触れて述べてみたいと思う。まずは、不倶戴天ということ……。

かつて永田町徒然草No.394で野党の覚悟ということを書いた。今回は、野党には“不倶戴天という覚悟”が必要であるということを述べる。不倶戴天(ふぐたいてん)とは「倶(とも)に天を戴かず」という意味で、私はこれまでごく普通に使ってきた。念のために広辞苑で調べてみた。

 不倶戴天(ふぐたいてん)
[礼記曲礼上「父之讐(シュウ。原典は誰の前に“ふるとり”がつく字を使う。私のコンピュータからは出てこない。あだ、かたきという意味)、弗与共戴天、兄弟之讐、不反兵、交遊之讐、不同国] (共にこの世に生きてはいない意) 命をかけても報復しなければやまないほど深く怨むこと。本来は、父の仇は必ず殺すべきであるという意。不同戴天。ぐふたいてん。 「不倶戴天の敵」

用例にあるように、私たちはよく「不倶戴天の敵」といい方をするが、広辞苑にかいてあるほどの怨念や敵意を込めているだろうか。またそういう相手でない限り「不倶戴天の敵」という表現を使ってはならないというものでもないと思う。私は「倶に天を戴かず」という意味で「不倶戴天の敵」といういい方をしてきたし、ここでもそのような意味で使うこととする。このような約束のもとで、野党には、与党を“不倶戴天の敵とする覚悟”が必要であるといいたいのである。1993年(平成5年)の細川非自民連立政権の誕生以来、多くの政党や政治家が与党になったり、野党になったりしてきた。一貫して野党だったのは、共産党くらいしかないのではないか。

与党には与党の覚悟が必要である。いま安倍首相や自民党・公明党の政治家がいろいろなことをいっているが、与党の覚悟を感じさせるものがないから国民の共感が得られず、急落した支持率を挽回することもできないのである。ここではこのことには触れないこととする。問題は、野党の覚悟についてである。自公“合体”政権やその与党とは、「倶に天を戴かずという覚悟」が野党には必要であると私はいった。その意味するところは、自公“合体”政権とは、政権を倶にしないという覚悟である。もっとも現在のところ、自公“合体”政権の方から政権に参加してほしいなどという申し出はないと思うが、参議院選挙の結果次第では分からない

なぜ野党は、自公“合体”政権と政権を倶にしてはならないのか。それは自公“合体”政権の政権運営の理念や哲学が違うからである。政権を獲ることを天下を獲るという。昔、中国では天が優れた人物に天命を下し、王・皇帝にしたと考えられた。政権には、国家をどう治めるかという理念や哲学がある。野党というのは、政権党と統治の理念や哲学を異にするから野党でいるのである。それでいいのだ。そこが大切なのである。政権党の統治に問題が起こるのは、与党の理念や哲学が間違っているから起こるのだというのが、野党の自負でなければならない。野党はそのことに自信をもって、堂々と政権や与党を攻めなければならない。「あんた方とは、倶に天(政権)は戴きませんよ」という堂々とした覚悟が、野党には必要だと私はいいたいのである。

年金問題をはじめとして、自公“合体”政権の問題があっちこっちから噴出してきた。なぜそのような問題が起こるのか、自公“合体”政権の基本的な理念や哲学に言及しながらこれを追及することが肝要である。年金問題が起こった最大の原因は、大事なことを官僚まかせにしていたからである。権力の行使は、政治家が官僚に命じて行わせるのだという民主主義の基本が分かっていないのである。だから自治労のせいだなどというトンチンカンな責任転嫁が出てくるのである。国民の信任を得て政権を組織しながら、官僚をキチンと掌握していないことなど、政権党としての責任を最低限度も果たしていないという絶好の証左なのである。「野党はそれがやれるのか」と彼らはいうだろう。そのときは、「私たちは従業員を使えないほど無能ではありませんよ!」といえばそれでいいのだ。

なぜ、自公“合体”政権とは倶に天を戴かずかという理由は、この他にもいっぱいある筈である。政権を維持するためならば何でも平気で行うということなども攻めるべきところであろう。それは、自民党や公明党のための政権だということを自白しているようなものだからだ。理由はどうであれ、天下国家は国民のものであることは誰も否定できない筈である。身内からも全体主義的であると告発された公明党が、政権の中にいることも絶好の攻撃材料であろう。自民党がかつて公明党の政権参加をどのようにいっていたのか、それは公式文書でいっぱい残っている。昔中国では、王や皇帝が天命に背いたとき、天がその王や皇帝を排することを“革命”といった。参議院選挙で示される国民の意思は、天命である。細かい技術論を弄して天命を無視しようというのなら、本当の革命を起こせばそれでよいではないか。野党には、不倶戴天の意気をもって進んでもらいたい。

それでは、また明日。

  • 07年06月25日 03時27分AM 掲載
  • 分類: 2.国内政治

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