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 マスコミ市民   2014年4月号

【特集】国家主義へとひた走る安倍政権とメディア

集団的自衛権の行使容認で、日本は否応なく国際紛争に巻き込まれる

元自治大臣・元衆議院議員  白川  勝彦

■ 論戦の積み重ねで導き出された憲法解釈

まず、法の解釈論の話からはじめたいと思います。憲法も法律も、法の解釈は条文以前に価値判断が先行するのだと思います。たとえば非嫡出子の相続の問題でも、条文には「嫡出子の2分の1」と書いてありますが、憲法全体の趣旨とりわけ法の下の不等に照らして考えるならば、やはりおかしいということで判例変更をしたのです。ですから、条文を顕微鏡で見たら真実が出て来るという話ではありません。集団的自衛権の行使を認めるか認めないかという議論の場合も『最初に価値判断があって、それを理屈づけるために条文を書くと考えていいのだと思います。ただし、条文の文言に明らかに反することや、条文をひっくり返すようなことがあってはならないのは当然のことです。

ご存じの通り、憲法9条に関する解釈は無数存在いたします。マッカーサーノートでは、自衛のための戦争も認めませんでした。憲法制定議会のなかで、『自衛のための戦争もダメなのか」という野坂参三さん{共産党)の質問に対して、時の首相の吉田茂さんは「自衛のための戦争という名目で幾多の戦争が行われてきたので、それも認めない」と応えたのです。憲法9条・自衛権の解釈は、戦後の国会における論戦やそれに伴う具体的な法律の制定過程のなかでやり取りされてきた議論が一種の判例のように積み重なり、その結果として今日の結論が導き出されてきたのです。自衛隊の存在は、憲法9条のもとでも自己の生存を守る正当防衛として否定されることはありません。自衛権はどこの国にもありますので、自衛隊をもつこと自体は許されると解釈されています。しかしそれは、まさに自衛のための戦力であって、決して他国を攻撃するものではありません。それゆえ、そこには自ずと様々な制約があり、外国の軍隊とはその中身も法律面でも違っているのです。

いま問題になっているのは、そうした個別的自衛権があるなら集団的自衛権もあるではないか、という議論です。その議論は前々からあり、最も論戦が戦わされたのが日米安保条約締結のときでした。当然のことなから、それは内閣法制局で憲法上の解釈を経なければ国会の俎上に上がりません。安保条約は集団的自衛権の変形かもしれませんが、それが許される最大の理由は、他の一般的な安全保障条約とは違って片務的な条約であるということです。日本はアメリカに守ってもらっても、アメリカが攻撃された場合には相互防衛関係がないので、集団的自衛権の範疇には入らないということで解決したのです。そうでなければ、日米安保は憲法9条違反で許されない、ということになったと思います。

「安保ただ乗り』論を言う人がいますが、日米安保条約は現にアメリカが片務性を認めて結んだ条約です。日本は守ってもらう、その代りにアメリカに基地を提供するという内容なのです。それはアメリカにも利益があるので、わざわざ日本に助けてもらう必要はないという判断のもとに成り立っているのです。もし「ただ乗り」という批判があるとすれば、それはアメリカの方から『それなら安保はやめさせてもらいます」と言われる筋合いのものです。しかし、今のところアメリカ側からそうは言われてはおりません。今や民主党まで『日米同盟」という言葉を平気で使っていますが、私が国会議員だった頃は、「日米関係は最も死活的重要な二国間関係である」という言い方でした。同盟といえば、普通は軍事同盟を指しますが、日本はアメリカと軍事同盟を結んでいるのではありません。日本に集団的自衛権がないからアメリカは日本を助けない、ということはありません。アメリカは中国とは争いたくないし、日中や日韓の紛争に巻き込まれたくもありません。アメリカとしては、『日本が攻撃されそうなことはしなさんなよ」ということなのです。

■ 集団的自衛権行使を否定する、確定した憲法解釈

集団的自衛権の規定は国際連合規約の中にもありますし『それぞれの国の権利としてはあるのだと思います。しかしわが国には、「憲法9条の趣旨に照らせば集団的自衛権の行使はできない』という確定した解釈があるのです。それは、歴代の内閣法制局長官の答弁というかたちでなされています。その解釈は、普通の日本語の理解としておおむね妥当ですし、国際及びわが国の政治情勢を総合的に判断して、極めて賢明な判断だと思います。

内閣法制局長官は、内閣と無関係な法の番人という存在ではありません。今までの長官の答弁は、歴代の内閣総理大臣もそれを是認してきたのです。それを今改めようとしていますが、憲法前文と9条が文理上『集団的自衛権は否定されていない」と読めるかといえば、それはかなり無理があります。「前項の目的を達成するために、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段として永久にこれを放棄する」ということは、持っていれば使うだろうから「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と決めたのです。どこから読んでも、「戦争にはかかわるな」「日本が攻撃されるような理由をつくるな』という考え方が書かれていると思います。

安倍さんとそのお仲間でつくった安保法制懇では、①公海上で攻撃を受けた米艦船の防護、②米国に向かうかもしれない弾道ミサイルの迎撃、③PKOなどで他国軍を救護する駆けつけ警備、④武力行使する他国憲への後方支援の拡大、という4つのケースを想定して、集団的自衛権の行使を認めようとしています。『同盟国が攻撃されているのを黙って見ているのは信義上ゆるされない」という理屈ですが、そこで完全に欠落しているのは、集団的自衛権を行使した途端に嫌が応なしに国際紛争に巻き込まれることです。同盟国(現実にはアメリカですが)に攻撃した国は、その時点から「あなたも武力行使したのだから、あなたは私の敵である」となり、日本に対してそれを理由に攻撃を仕掛けてくることは間違いないのです。4類型を示して「こんな時には何とかしなければいけない」と何気なく言っていますが、それは子供騙しの話です。

よく「地球の裏側まで行くのか」という批判がありますが、集団的自衛権の議論はそういうことではないのです。たとえば、北朝鮮に対して集団的自衛権を行使すれば、北朝鮮は日本を敵だと思うでしょう。戦闘状態のところに首を突っ込めば、日本も相手側から見れば敵になることが問題なのです。地球の裏側まで言って戦争をする国になるということではなく、戦争に巻き込まれる国になる危険性なのです。

安倍さんはいろんなところに関与していきたいのでしょうが、集団的自衛権の行使は憲法前文ならびに9条との関連で、どう考えても許されません。どうしても集団的自衛権を行使するというのならば、『宣命と憲法改正をしなさい」と言いたいのです。それで国民がいいというか、どうかです。それが無理なので解釈改憲で集団的自衛権を認めるというのは、実に姑息な話です。

■ 「一国平和主義」「絶対平和主義」という生き方

私たちは、先の戦争に対する深い反省の上に立って争いごとを避ける、いわぱ絶対的平和主義といってもいい立場に立ってきました。それは憲法に書いてあることであり、それが戦後日本の生き方でした。だからこそ、日本は平和国家という評価が定着したのです。ところが、『そんな評価はありがた迷惑だ」「絶対的平和主義は良くはないのだ」ということで、安倍さんは『積極的平和主義」ということを言い出しました。

アメリカなどは、まさしく『積極的平和主義』なのでしょう。アメリカは強い国ですから、今まで本気で戦争を仕掛ける国はありませんでしたが、日本が同じように『積極的に世界の平和のために関わりますよ』と言って紛争事の中に入っていったら、関連いなく攻撃されます。そういう当たり前の判断が安倍さんにはあるのか、私は凄く疑問に思います。

よく「一国平和主義」という悪口を言われますが、私は限りなく平和を希求します。平和が壊せれるようなことを極力避ける、それに尽きるのです。それを「一国平和主義』と言おうが言うまいが、わが国はそういう道を選択したのです。「普通の国」になりたいという人がいますが、そのためにどれだけ多くの戦争に巻き込まれるかを考えるべきです。安倍さんが言う「積極的平和主義』を見るとき、おそらくそれは『一国平和主義」や「絶対的平和主義」に対するアンチテーゼとして言いたいのだと思います。しかし、平和を選択したわが国は、決して世界から軽蔑されているとは思えません。日本が平和憲法をもち、戦争をしない国であるということは、日本の評価を高めたことはあってもマイナスに作用したことはなかったと思います。私は一国平和主義を貫く方が、中途半端な平和主義を語ることよりもはるかに意味があると思いますし、ましてや国民を戦争に晒すようなことは最も悪いことだと思います。

そのことは、国だけにいえることではなく、個人の生き方としても考えられると思います。どんな諍いごとに対しても出掛けていく人もいますが、自分が害されたときは闘うけれどもそれ以外はあえて火中の栗は拾わない人もいます。諍いにかかわれぱ自分も害を受けることもあるので関わりたくない、という考えの人です。そういう生き方をする国があってもいいと、私は思います。火中の栗を拾おうとする集団的自衛権の行使容認は、将来的には訴訟を起こされることもあるでしょう。『私が総理なのだから、集団的自衛権があるという解釈に変えた」と決めても、それだけでは済まないでしょう。その解釈に従って、いろんなことをやりたいのです。たとえば、アメリカに飛んで行く大陸間弾道弾を迎撃するための対空ミサイルを買う予算を付ければ、その是非は今後法律的に争われると思います。

また、シーレーンを守るという議論があります。シーレーンを妨害されればわが国は経済的には影響か出ますが、日本の国土に他国の軍隊が入ってくるのとは違います。それが国民の生存までストレートに結びつくので自衛戦争をする、とまで言えるのでしょうか。なぜ集団的自衛権がもてないといわれてきたのか、その意味をいま皆が考えなければならないと思います。

■日中・日韓関係と歴史認識

次に、最近の日中・日韓関係に触れておきたいと思います。日韓問題について言うならば、韓国は何も特別なことを言っているわけではありません。以前から言っている歴史認耀の問題であり、その一つとして従軍慰安婦の問題や竹島の問題がそれぞれあるのです。わが国は、これまで日本が帝国主義的に朝鮮半島を植民地にした反省から始まり、それが村山談話というかたちで正式に表明され、さらに従軍慰安婦問題に関しての河野談話が出されたのです。安倍さんやそのお仲間が使う「自虐史観」という言葉は、少なくとも日本国憲法がいう価値観とはマッチしていないと思います。

彼らは、村山談話もけしからんし河野談話もおかしいというのですが、私は『では朝鮮総督府って、どこにあったのか知っていますか」といつも言うのです。ソウルに景福宮というところがあるのですか、それは日本でいえば皇居です。皇居の正門を渡って皇宮がある、そのど真ん中に朝鮮総督府を建てたのです。GHQのように皇居の前の第一生命ビルにあったのではありません。それは誇りある朝鮮民族にとっては耐え難かったことだと思います。ですから、かつての日本の植民地支配というのは相当過酷であったし、韓国人の尊厳を無視したものだと思います。慰安婦問題についても、戦争から帰ってきた人の話を問けば『そういうことがあったのだろうと、私は子どもなからに分かりました。それは文書があるとか無いとかいう問題ではありません。朝鮮人に対して酷いことをした事実を反省しようとしないから、「歴史認識が違う」と言われるのです。ですから、今まで日韓首脳会談さえ開くことができないのです。

さらには、靖国問題が出てきて日中首脳会談も開かれません。ただでさえ近年は中国との間に摩擦があるのですから、いつ戦争に至るかわからないような状況を除去することが内閣の最大の役目のはずです。森田実さんがよく言いますが、「いかなる大義名分のある戦争よりも、私ははるかに普通の平和の方に価値を置く」ということです。これまで日韓・日中の関係は多くの人の努力と英知で良好に築かれてきたのに、靖国問題で急に悪くなりました。それは中国や韓国だけではなく諸外国から非難されています。ポツダム宣言第6条には、「われらは無責任なる軍国主義が世界より駆逐されるに至るまでは、平和、安全及び正義の秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺隔し、これをして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず」と書いてあります。「除去せらるべし」その象徴が東条英樹や7名の戦犯たちです。「永久に」なのですから、それは死んで神様になっても除去されるということです。そういう人をお参りに行くのではなく、戦死者に哀悼の意を捧げに行くのだといっても、それは通用しない話です。靖国問題も従軍慰安婦の問題も、日本国民と国際世論は決して安倍さんたちには味方しないと思います。

竹島の問題も、実はポツダム宣言に深く関連しています。イスンマンラインが締結された1952(昭和27)年1月は、サンフランシスコ講和条約が発効する前でした。ということは、日本の基本的な主権についてアメリカが関与していた時期なのです。ポツダム宣言の第8条には、「カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびにわれらの決定する諸小島に局限せらるべし」とあります。こうしたなかで、当時アメリカはイスンマンラインを黙認したのです。竹島問題についてアメリカは決める立場にないのですが、現実的にはアメリカがそういう判断をし、その結果韓国は竹島を実効支配して今に至っているのです。

そういう経緯なので、竹島問題の解決は相当に努力をしないとできないことです。「韓国はけしからん」「あれは以前日本人が実効支配していた」と言っても、その後はポツダム宣言のこの条項を含めて歴史的な経過があるのです。『お前らとは仲良くしない」というのは、近隣諸国との間で紛争が起こる素を作ることです。日本は主張してもいいけれど、戦争に至らない努力が必要です。火に油を注ぐようなことをしながら『いつでも扉はあいている」などと言っても、それは通用しません。

■ジャーナリズム精神がなくなったメディア

近代自由主義は、権力に対する懐疑から生まれたものですから、あらゆるものが批判の対象とされ、その批判に耐えられるものだけが現実の政治の中で存在を許されるのです。まず、それが大前提です。その批判は、第一義的にはマスコミの仕事です。ジャーナリズムの役割は、一般国民にはできないチェック機能であると理解されてきました、そして、わが国のジャーナリズムは、これまではその役割を果たしてきたと思います。昔は、新聞記者といえばある面で尊厳と評価を与えられていましたが、今は新聞社の社員という感覚です。ジャーナリズムからの批判がなかったら必ず権力は腐敗するのに、近年はその批判精神がなくなりました。

今のマスコミに批判精神はなくなったということは、ある意味で日本は自由主義を放棄したに等しいのです。その大元は国民の側にあるのか、マスコミの側にあるのかわかりません。国民は概して大勢順応しますので、たとえ嫌われようとも第三者の眼として批判すべきものは批判しなければなりません。それがジャーナリズムの義務であり使命なのですが、権力は「それでは都合悪いから懐柔してしまえ』と、常にそうしてきました。

その誘惑と闘ってきたのが世界のジャーナリズムです。その誘惑に乗るようならジャーナリズムとは言えません。北朝鮮や中国の報道を、誰もジャーナリズムとは言わないでしょう。でも今や、日本もそれとほとんど同じくらいに成り下がってしまったように思えます。NHKは昔から予算の関係で多分に権力と癒着していましたが、民間のメディアはそれなりに頑張ってきたと思います。ところが今は、権力を批判する努力もせずに権力と仲良くして美味しい飯を食った方がいいという、まさに憂うべき事態だと思います。

では、ジャーナリズムがダメなら何に期待するのかといえば、私は野党しかないと思います。言論というのは、数は少なくても質が良ければいいのです。野党たるもの今は最大限頑張らなければならないし、メディアも自分がやれないのならば野党の言っていることを最大限載せなければなりません。しかし残念なことに、その野党も今はまともな論戦ができないのです。

いま、自由主義の旗のもとに『憲法を守ろう」という軸で野党が巣まれば、少なくとも自民党の改憲案は嫌だという人たちが集えば、あっという間に国民の6割の支持が集まれるはずです。『リベラル結集」なんて言わなくてもいいので、昭和憲法は国民の6割が支持しているという信念に立てばいいのです。この憲法を具体的に変えようとするならば、安倍さんは国民の虎の尾を踏むことになるでしょう。それが今の野党の人たちには分かっていないのです。そもそも野党が「アベノミクス』などと言うこと自体が不見識ですし、闘う気がないと思われても仕方がありません。

自由主義は、特定秘密保護法のような権力の濫用に通じる法律を一番嫌うのです。「昭和憲法には共産主義がしみ込んでいる」と言った自民党の国会議員がいるそうですが、私は最もリベラルな憲法だと思います。1917年のロシア革命から、弱者に対しての配慮を抜きに自由主義は存立しえなくなりました。では、どのように配慮するのがよい自由主義かといえば、私は社会的公正を重視することだと思います。法律をつくるときに、憲法の理念を汲み取ってつくるデリカシーもない安倍さんたちは、そもそも自由主義者ではないと思います。まともな自由主義者なら、秘密保護法などつくれません。あれを通してしまったということは、日本の国会議員のほとんどが自由主義者ではないということです。今はそのくらいきつい話だと、私は思っています。(談)

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