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創価学会シンボルわが国最大のカルト「創価学会・公明党=池田大作」

フリージャーナリスト 古川 利明



第十回

再び、「カルト」を考える視点について
――「自由主義(リベラリズム)」は“時代の必然”である


1文字アキ『わが国最大のカルト「創価学会・公明党=池田大作」』の連載も、これが最後になりました。これまでお話してきたことをうまく締めくれるかどうかはわかりませんが、今回は私の個人的な話から始めさせていただきたいと思います。

1文字アキ私が創価学会3部作(『システムとしての創価学会=公明党』『シンジケートとしての創価学会=公明党』『カルトとしての創価学会=池田大作』)を刊行したのは、一昨年(1999年)から昨年(2000年)にかけてですが、1、2作目と3作目の間には1年ほどのブランクがあります。
1文字アキ既に述べましたが、私はもともと創価学会の問題にはほとんど無関心だったというより、無知でしたので、私も含めて、自分の周囲には学会に関わっていたという人は皆無でしたので、そうした自分の“過去”を振り返っても、未だになぜ、こんな鬱陶しい問題にかかずらっているのか、よくわからないのです。

1文字アキで、本を書き下ろしたのも、版元(第三書館)がしつこく頼んできたために、断りきれずにしょうがなく書いただけであって、それ以上でもそれ以下でもないのです。
1文字アキ実は、私は前2作(『システム』『シンジケート』)を刊行した後は、別のテーマで取材しようと思っていたのです。その前2作も、大して売れはしなかったけど、それなりに関係者の間からはいい評価をいただいていたので、「学会問題はこれで卒業した」と、本当は沖縄の移り住んで、しばらく1年なり2年くらい腰を落ちつけて、自分の視点から一度、「戦後の沖縄」というものを1冊の本に書き下ろしてみたいと、構想を進めていたのです。

1文字アキところが、また、版元の方からしつこく「3冊目はどうですか。3部作でキリがいいのでぜひやりましょう」と依頼がありました。しばらくは返事を保留していたのですが、ある一つのことがきっかけで、『カルト』を書き下ろす決意をしました。それが「白川氏の秘書・交通違反もみ消し逮捕」事件です。
1文字アキ事件そのものは既に1審で有罪判決が出ており、「秘書が違反の点数を警察に問い合わせだけなのに、そこで警察が気をきかせて違反のもみ消しを行ったこと」を、裁判所が「秘書のもみ消し」と認定したこと自体、私などは理解に苦しみます。
1文字アキあの福岡高裁の「古川判事」のように、裁判官が検事とグルになって、嫁ハンのストーカー事件を“もみ消そうとする”ご時世ですので、今や「司法の正義」もへったくりもないですが、それはともかく、作家の宮崎学氏もHPなどで指摘しているように、私はこの事件は「政治家・白川勝彦」を抹殺する“謀略”であったと、私は思っています。
1文字アキ要点だけをかいつまんで言うと、現職代議士、それも元自治大臣・国家公安委員長という肩書のある政治家の秘書を逮捕するという、極めて高度な政治的判断を、たかが田舎の一県警本部ができるわけないのです。

1文字アキこの事件が起こった昨年3月は、総選挙が間近ということもあって、白川氏は徹底した自・公批判、創価学会=公明党の政権参画の違憲性、さらに自らの国家公安委員長の体験から、警察制度の民主化を訴えていました。一有権者の立場からすれば、極めてまっとうなことを言っているだけにすぎないのですが、こうした「批判」をどうしても看過できない人たちが国家権力の中枢にいたわけです。
1文字アキそれはつまり、自民党執行部(=野中広務)、創価学会・公明党(=池田大作)、警察官僚です。そして、この3者に加えて、警察発表をそのまま垂れ流して記事にした“大新聞”が、さながら集団リンチのごとく、白川氏のバッシングを始めました。

1文字アキ確かに、当時、白川氏は現職の衆院議員でしたので、一般的には「強者」の立場かもしれませんが、しかし、自民党執行部、創価学会・公明党=池田大作、警察官僚、大新聞が行う袋叩きの前では、一人の「弱者」に過ぎません。
1文字アキ当時、宮崎学氏がHP上で「白川救済キャンペーン」をやっていまして、それに呼応したのが私です。仮に、その「もみ消し事件」が事実であったとしても、それをもってして白川勝彦という政治家を葬り去ろうとすることは、絶対に許すことができませんでした。こんなことを放置していたら、この国で反対意見を言ったり、批判する人間などいなくなってしまいます。

1文字アキだいたい、政・官・財が癒着し、もたれ合ってきた55年体制下では、与野党の国政・地方議会を問わず、政治家の大きな仕事の一つが、こうした三者の利権構造に食い込み、そのおこぼれをもらうための、さまざまの「口利き」だったわけです。実際、私の取材でも、公明党都議経験者の話から、彼らが公営住宅に学会員を優先的に入居させるために口利きを図ったということが出てきています。
1文字アキまた、昨年秋には、東京信用保証協会からの融資を巡り、学会員である金融ブローカーの原潔と、元公明党代議士の政策秘書だった藤井和範が、東京地検特捜部に逮捕されています。逮捕容疑は、藤井は原からの依頼を受けて、信用保証協会に口利きをし、その謝礼を受け取ったということです。原は、この事件のキーパーソンでしたが、取り調べが創価学会のことに及ぶと、「それだけは勘弁してくれ。言ったら殺される」と供述していたといいます。
1文字アキ東京地検特捜部は、原の依頼で行政サイドに口利きをしていたとされる複数の公明党東京都議の名前をつかんでいて、その1人が“清掃利権”の大物で、池田センセイの“お庭番”である藤井富雄でした。しかし、証拠不十分だったのか、政治的な圧力が働いたのかはわかりませんが、捜査は藤井富雄にまで延びることはなく、終了しました。

1文字アキ公明党議員に関しては、もちろん、「池田先生」をお守りするという大事な役割がありますが、それとともに、学会員の手足として、彼らの“福利厚生”のためにかけずり回るという仕事も、当然、要求されています。その中に、有権者が政治家を使って許認可権を握る役所に「口を利いて」もらうい、その見返りに報酬を受け取ることなど、これは別に公明党議員に限ったことではありませんが、政治家にとっては「日常茶飯事」だったわけです。
だって、あの共産党ですら、元都議会議員の秘書がそういったもみ消しに関わっていたことを週刊誌で暴露しているわけですから、もし、白川氏の秘書を逮捕するなら、他の国会議員の秘書も同様にガンガン逮捕しなければ、フェアではないでしょう。私はそこに今度の事件の“政治的謀略”の臭いを、敏感に嗅ぎとるのです。

1文字アキそして、それ以上に「強きをくじき、弱きを助ける」のが私のポリシーです。
1文字アキ現職の代議士とはいえ、自民党執行部、創価学会=公明党、警察権力、マスコミが一気に潰そうとしている状況というのは、白川氏を1人の人間として見た場合、相対的には間違いなく「弱者」の立場に置かれていたわけですから。権力がそれをカサにきて、弱者を痛めつけることは、一人の人間として、私にとっては絶対に看過することはできないのです。
1文字アキここで、私はついに「キレて」しまいました。このとき、私は「3冊目」を書く決意を固めたのです。そして、今回、本サイトでの連載を引き受けたのも、ここに理由があります。

1文字アキちなみに、こうした流れも含めて、今の時代状況の中で白川氏が自民党を離党し、新党を立ち上げて参院選に臨むことに、繰り返しではありますが、私は一有権者として全面的に支持します。
1文字アキしかし、いつの日か、白川氏が権力を握った後に、政治家としての志を喪失し、ただの「権力亡者」、つまり、「野中広務」や「池田大作」となってしまったときは、躊躇なくそこから引きずり下ろす行動に出るでしょう。所詮、「ジャーナリスト」というのはそういう人種なのです。そして、これこそが本当の「友情」というものだと思います。

1文字アキこの集中豪雨的な“白川バッシング”の中でいちばん許せなかったのが、新聞報道でした。特に毎日新聞は(ほとんど誰も真剣に読まない)2000年3月28日付けの社説で「もみ消し事件・汚れた口利きと縁切りを」という、さももっともらしい記事を掲載しています。これを読んだ私は開いた口が塞がりませんでした。
1文字アキというのは、私も含めて、「交通違反もみ消し」の口利きなど、新聞記者であれば(少なくとも私より上の世代の人間は)、それほど腐るほど出てくるわけですから。

1文字アキこうした実態は、1度、本サイトのBBSに投稿しましたが、また、腹が立ってきたので、もう一度、“暴露”しますと、私は大学を卒業した1988(昭和63)年に毎日新聞に入社しました。
1文字アキで、そのころ、よく上司や先輩記者から聞かされたことが、「飲酒運転やスピード違反で捕まっても、それをもみ消すのがサツ回りの仕事」ということでした。
1文字アキ私の先輩記者などは「スピード違反でキップを切られても、それを所轄の副署長のところに持っていて、『たのんます』で、終わり。キレイになって戻ってくる」とはっきり言ってますし、私自身ももみ消しを依頼したことがあります。

1文字アキ私の場合は、入社して2つ目の支局である姫路のとき(1991年)でした。今でもはっきりと覚えていますが、取材中、JR山陽本線に沿った直線道路を走っていて、アクセルを踏んだら、先にネズミ取りがいて、「40キロ制限のところを17キロオーバーだ」と言われ、反則キップを切られました。
1文字アキでもって、当時の姫路署長のところに言って、私は「仕事中だったし、何とかならんもんですか」とお願いに行きましたが、その人はまともだったせいか、「それはちょっと……」ということで、やんわり断られました。

1文字アキいま、こんなことをやって発覚したら、“大スキャンダル”ですが、当時の私は別にはっきり言って、おかしいとも何とも思いませんでした。だって、新聞記者はみんなやっていたわけですから。
1文字アキ今思えば、「恥ずかしい」の一言に尽きますが、当時は自覚はありませんでした。それは、自分は“大新聞”という「特権階級」にいるんだ、という奢りだったと思います。そういう「特権階級」にいる自分は、何をやっても免責されるんだといううぬぼれでしょう。で、そういう新聞社の体質はいまもほとんど変わっていません。

1文字アキこういった「交通違反もみ消し」を始めとする新聞社と警察の間の“闇取引”――つまり「癒着」ということですが――は、腐るほどあって、実はまだ私は表に出していない話がいくつもあるのです。まあ、暴露すれば、毎日新聞編集局長のクビが飛ぶ話ですが、ナントカの一つ覚えのように、ただ書けばいいってもんじゃありませんので、今後のために大切にしまっておきます(笑)。
1文字アキこんな新聞社が「交通違反もみ消しの白川代議士はケシカラン」と叩くのは、チャンチャラ可笑しくてしょうがないのです。自分たちのことはほおかむりしておいて、他人のアラは重箱の隅をつついてでもほじくり返す。

1文字アキ日本人の伝統的な美徳として、「恥を知る」ということがありましたが、もし、いまの新聞に、私が一つだけはっきり言えることは、「恥知らず」ということです。
1文字アキ白川代議士秘書の事件を、警察発表をタレ流して記事化するのは、まあ、それが彼らの“仕事”ですので、百歩譲って仕方ないにしても、それだったら、自分たちがやってきた“過去”は何なのか。「汚れた口利きと縁を切らなければならない」のは、新聞記者自らの方でしょう。

1文字アキそうした自分たちに都合の悪いことは、敢えて「見て見ぬフリ」をしておいて、“お上”(=権力)が発表する話は、喜んで書きまくる。
1文字アキ本来、ジャーナリズムとは、果敢に「権力悪」に挑むこと、つまり、「強きをくじき、弱きを助け」なければならないはずですが、実際にはこのように「弱きをくじき、強きになびいている」のが現実なのです。
1文字アキそして、この延長線上に、わが国最大のカルト「創価学会・公明党=池田大作」が政権与党入りしていることに、大新聞が批判を浴びせるどころか、まったく沈黙してしまっている理由があると思います。

1文字アキ今回の連載を続けるなかで、創価学会とマスコミの癒着、なかんずく新聞社でも、特に私の古巣でもある毎日新聞とのただならぬ仲ということについて、1章独立させて書こうかと思ったのです。
1文字アキが、少なくとも、本サイトにアクセスしてくる読者であれば、毎日新聞の子会社である東日印刷に、聖教新聞、公明新聞の印刷を受注して、「創価学会・公明党=池田大作」が毎日新聞の“キンタマ”を握っていることなど、有名すぎる話ですし、ここ最近、特に自・自・公以降は、不況で広告収入が激減している折り、毎日新聞はもちろん、他の全国紙や地方紙に至るまで「池田本」の全面広告がガンガン掲載されているのを見ても、この国の新聞ジャーナリズムが、これだけ創価学会に対してへっぴり腰だというのは、わかり切っていますから。「何をいまさら」というレベルの話です。

(※創価学会とマスコミとの間のどうしようもない腐れ縁は、拙著『シンジケートとしての創価学=公明党』の「第三章 創価学会のマスコミ裏ネットワーク」に、関係者の実名入りで詳しく書いていますので、関心のある方は、そちらをご参照下さい。また、『カルトとしての創価学会=池田大作』にも「巻末付録」として、官公庁、議員、マスコミにおける創価学園出身者のリストを一挙掲載しております。特に毎日新聞に関しては、“創価学会枠”で入社した学会員記者はポロポロといますので、いちおう、ご参考まで。)

1文字アキまあ、年がら年中、経営危機説が囁かれている毎日新聞に関していえば、「日本最大のカルト」から(子会社を経由して)莫大なる資金提供を受け、何とか経営を維持しているような状態なのですから、これは「異常」であるのはもちろんですが、ここまで来ると、「悲劇」というより、もはや「喜劇」の世界でしょう。
1文字アキむしろ、それより注目すべきは、ここ最近、特に今年(2001年)に入ってからは、週刊誌、とりわけ大手出版社系の『週刊文春』『週刊新潮』『週刊ポスト』『週刊現代』において、“学会バッシング記事”がすっかり息をひそめている点です。
1文字アキそして、“自・公全体主義政権”によって、事実上の「言論弾圧法」「権力スキャンダル記事規制法」であるところの個人情報保護基本法が、成立させられようとしている動きと、見事なくらいリンクしているのは、実に興味深いです。
ちなみに、私の耳には、未確認ながら、学会サイドが「週刊誌は既に制圧した」と“勝利宣言”を発したとの噂話が入り込んできていますし。
ですが、こういう時にこそ、いやしくも「言論人」の看板を掲げる人間、組織というものは、その唯一の武器である「ペン」を取り、権力に対し、さらに果敢な戦いを挑まなければならないのではないでしょうか。

1文字アキ私自身のジャーナリストとしての出自は新聞記者であり、そして、組織こそ離れましたが、私は今でも「新聞記者」、なかんずく、「社会部記者」だと思っています。
1文字アキそういった立場からすれば、マスメディアとよばれる媒体のうち、テレビに関して言えば、免許を郵政省(現・総務省)に握られているわけですし、また、民放はスポンサーからのCM収入によって経営を維持しているわけですから、権力に弱くてあたり前なのです。別に私個人はいまのテレビにジャーナリズムなど求めていませんので、「HEY! HEY! HEY!」などの歌番組といった娯楽を提供してくれればそれでいいと思っていますから。

1文字アキしかし、新聞というのは、いちおう読者からの購読料もちゃんと取って、経営を維持しているわけですから、本来、読者の方を見なければならないはずでしょう。
1文字アキですが、いちおう表向きは「私たちは読者の立場に立っています。一生懸命、社会正義を実現しています!」というフリをしていますが、実際には「弱きをくじき、強きになびいている」わけですから、「白川代議士秘書もみ消し事件」の報道に象徴されるように、その腐食、劣化の根は深いものがあります。まさに、本質的には「自・公」そのものでしょう。
1文字アキ私の過去の恥を告白しているようで、非常に胸が痛いのですが、この日本もジャーナリズム、なかんずく新聞ジャーナリズムがもっとマシだったら、この国もここまでひどくはならなかったと思います。まあ、コロンブスの「卵が先かニワトリが先か」の議論ではありませんが、日本国民の知的レベルだと、あの程度の水準の新聞でちょうどいいのかもしれませんが……。でも、もうそれで済まされる時代ではないと思います。

1文字アキ個人的な話をして恐縮ですが、年末に久しぶりにポーランドを旅行してきました。「久しぶり」というのは、これが1987年、94年に次いで、3回目の訪問だったからです。
1文字アキワルシャワの街も行くたびに大きく変化していて、最初に行った学生時代の1987年というのは、もちろん、まだ東西冷戦下でベルリンの壁が存在していた時代です。街はポンコツ車が走り抜け、店の前は行列だらけで、何と薄暗い肉屋に入ったら、品不足のため、商品の肉がなかったのに、腰を抜かした覚えがあります。
1文字アキもちろん、そのころは共産党の一党独裁で、非合法化された連帯が地下活動に入っていましたが、思想信条や言論出版の自由は著しく制限されていました。当時、現地で知り合ったポーランド人のある女の子が「もし、ここで人生の夢を実現するには、共産党の幹部になるか、外国に亡命するか、その2つしかない」と、思い詰めた表情で言い切っていたのを思い出します。

1文字アキそれから13年。ポーランドは1989年の一連の「東欧革命」を機に、共産主義体制から資本主義経済への道を歩み始めましたが、当初のショック療法による後遺症も脱し、ワルシャワの街は活気であふれていました。街で話を聞くと、“ポーランド版フロム・エー”というのか、求人用の雑誌も実に分厚くて、いまは「ワルシャワに出てくれば、まず、仕事がないということはありえない」とまで言っていました。
1文字アキこうした繁栄を目の当たりにしながら、学生時代に知り合った旧友たちとも再会し、久しぶりに一緒に酒を飲みながら、いろんなことを語り合いました。

1文字アキそこで私と同じ年の男性はこう言ってました(彼はワルシャワ大学の日本語学科を卒業していますので、もちろん日本語がペラペラです)。

「ベルリンの壁が崩壊して、共産党の一党独裁体制が崩れたとき、『共産主義は資本主義の前に負けたんだ』と言われたが、それは表面的な見方だ。もっと本質的には全体主義が自由主義の前に崩れ去ったんだ。確かに、全体主義の時代も、それなりに生活が保障されていたから、いろんな抑圧にもガマンできたけど、末期はそんな悠長なことも言ってられなくなった。それで民衆の不満が一気に爆発してしまって、体制を引っ繰り返してしまったんだ。
ただ、自分にとっては、全体主義の時代もそれなりに面白かったよ。全体主義と自由主義という、このまったく反する2つの時代を経験できたのは、とても良かったと思う。ただ、体制が変わったところで、僕自身の根底にある考え方は変わっていない。これは高校時代に読んだサルトルの影響かもしれないけど、自由主義だろうと、全体主義だろうと、決断し、行動するのは自分自身なのだから。最後は自分だけ。人には迷惑をかけない。自分で責任を取る。そういう生き方というのは、全体主義だろうと、自由主義だろうと、変わらないんだ」

1文字アキ彼の立場は、おそらく私と同じ「ウルトラ自由主義」だと思います。
世の中の人が私たちと同じ「ウルトラ自由主義」であるはずはないですし、また、こうした思想をみんなに押しつけるつもりもありません。
1文字アキしかし、1989年の一連の東欧革命を皮切りに、現在、世界的なレベルで「リベラリズム(自由主義)」を基盤に置いた民主化の波が至るところで起こっています。インドネシアでは、長年にわたり独裁を続けてきたスハルトが追放され、昨年は、「バルカンのヒットラー」の異名を取るユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領が選挙によって政権の座から引きずりおろされました。
1文字アキメキシコでも70年以上にもわたり一党独裁を続けていた旧与党・制度的革命党に代わり、国民行動党のビセンテ・フォックスが大統領に選挙で選出されましたし、お隣の台湾では、民進党の陣水扁が、総統に当選し、既に民主主義の手続きに則った健全な形での政権交代が実現しています。また、今年に入ってからは、汚職にまみれたフィリピンのエストラーダ大統領が、ピープルズ・パワーによって引きずり下ろされました。

1文字アキこうした世界レベルの動きを見ていても、もちろん、民衆が立ち上がったのは「経済の破綻」といった、極めて逼迫した状況などもあったにせよ、その根底には、自由を求める草の根の人々の決起があったからでしょう。
つまり、「リベラリズム」という潮流は、時代の必然なのです。「全体主義VS自由主義」という“思想闘争”は、実は国境を越えた地球レベルで起こっているのです。
1文字アキ私が本連載で、うるさいくらいに「創価学会・公明党=池田大作」を、「宗教の仮面をかぶった全体主義」、すなわち「カルト」であるとして、厳しく批判してきましたが、これはもっと巨視的に言えば、まさに「全体主義VS自由主義」というバトル・ロワイヤルの一環ということだと思います。
1文字アキナチス・ファシズム(全体主義)体制の分析を行ったエーリッヒ・フロムは、その代表的な作品である『自由からの逃走』の中で次のように述べています。

「自由は近代人に独立の精神と合理的思考とを与えたが、その一方で個人を真の孤独に陥れたことで、人間は底無し沼のような不安に駆り立てられ、自らがいかにちっぽけで無力な存在であるかを、痛切に自覚させられた。この孤独というものは、人間にとってどうしようもなく耐えがたいものである。そのとき、人間はこの自由の重荷から逃れようとして、新しい従属と依存を求めるか、それとも独立心と個性に裏打ちされた、より前向きで完全な自由を実現しようとして突き進むかの、この2つの分かれ道に立たされることになる」

1文字アキつまり、全体主義を作り上げるのは、独裁者の血統ではなく、自立を放棄した民衆(個人)の貧血だと、フロムはここではっきり言っているのです。
そういう点から見ていきますと、私が本稿で提起した問題とは、「創価学会・公明党=池田大作」だけに向けられるものでは、当然、ないのです。
1文字アキ10年経っても、不良債権問題すら解決できない金融当局や銀行、組織ぐるみでリコールを隠しつづけた三菱自動車、検察と裁判所が一体となって身内の不祥事をもみ消そうとした「司法腐敗」、こうした問題の背後にあるものは「創価学会=池田大作」そのもの、つまり、一個の人間としての自立を放棄し、自由の重荷から逃れようとして、責任を拒否する姿勢なのです。そこから、すべての問題(腐食、劣化)は始まっているのです。
1文字アキですから、私がかつていた“大新聞”など、大本営発表を垂れ流し、国民を戦場の送り込む旗振り役を仰せつかった戦前はもちろん、現在においても、本連載で指摘した自・公政権の中枢に巣くう恥部を摘出することなく、適当に「言論の自由」を振り回している実態は、「“言論機関”の仮面をかぶった全体主義」そのものです。これも、藤原弘達氏や内藤国夫氏が20年も前に指摘していたように、「創価学会=池田大作」以外の何物でもないのです。

1文字アキ結局、ひたひたと寄せつつあるいまの日本の全体主義的状況を跳ね返すには、おそらく、最終的には一人ひとりが自立し、自由の恐怖に耐えながら、自らの責任を果していくこと、すなわち、「人間革命」を行う以外にないのではないか。また、そうすることで、“池田大作”という存在も必要なくなるし、また、存在する意味もなくなってしまうのではないでしょうか。

1文字アキ前にも述べましたように、個人の自立を基盤に置いた「リベラリズム(自由主義)」の流れは、「時代の必然」です。こうした自覚を持つ国民(有権者)がいったいどれだけいるのか。その答えは今後行われる「選挙」という、政治参加の舞台ではっきりと出てくるのではないかと思います。

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