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目次


自民党を倒せば日本は良くなる
第5章 人間から出発する政治──私が歩んできた道

●自由主義──きわめて人間的な哲学

私たち自由主義者が考える自由主義の政治哲学は、それなりのきちっとした一つの体系をもっています。

自由主義の政治哲学は、ただ自由を叫ぶというものではありません。ましてや、現在の自民党の政治家のように、変幻自在、融通無礙(むげ)、無節操無定見な生き方を自由とするものでもありません。国家や社会の秩序をつくる政治的なものの考え方です。

そして、最良にして最強の秩序は、国民を信頼して国民に自由を与え、国民が自由にして闊達(かったつ)な活動をすることによってもたらされるという考え方なのです。

これは、秩序とは国民を管理することによって初めてできるものだというそれまでの政治哲学からするならば、革命的な、とほうもないものの考え方でした。

しかし、人類は、この自由主義的なものの考え方に基づく国家や社会をつくることによって、物質的にも豊かになり、精神的にも解放され、自己実現が可能となりました。それでいてちゃんとした秩序もあります。

自由主義の政治哲学は、一つの体系を持った考え方ではありますが、共産主義や戦前の国家主義のようなイデオロギーやドグマに比べれば、人によって説くところが相当に違うものの考え方であることは事実です。

さらに重要なことは、自由主義政治の決断はイデオロギーやドグマによるものではなく、全人格によって裏づけられる人間的なものであり、その全責任は決断した者がとるというものです。自由主義政治家の生き方がきわめて人間的であるという理由はここにあります。

自由主義を人間と切り離して語ることはできません。『人間から出発する政治』は、フランスの大統領であったジスカール・ディスタンが書いた本の題名ですが、この言葉は自由主義の本質でもあると私は考えています。

私が本書で述べたことは、私の全人格に基づくものであり、それは五五年の私の人生と切り離して語ることはできません。また、理解できないことも多々あると思います。これが、本書の終章で私の55年の生きざまを少し書く理由です。若干自慢めいたと感じられるところがあったとしたら、笑いながら読みとばしてください。

1. 機屋(はたや)の家に生まれ育つ──

●多くの従業員と寝食を共にして

1945年6月22日、私は新潟県十日町市に生まれました。9人兄弟の末っ子で、父45歳、母40歳のときの子供でした。敗北の色濃かった戦況をなんとか転換せんとして、「勝彦」と名前をつけられたようです。私の兄弟姉妹は、男は兄と私だけで、あとは全部女だったため、私は大事に育てられました。

私の家は、機屋(はたや)とよばれる着物製造業者で、祖父が創業し、父で二代目でした。もっとも、祖父は絹の商いが主で、機屋としては父の創業と言ってもいいでしょう。織機が全部で13台、従業員20〜30名の、当時の十日町では中程度の機屋でした。私が2歳のとき、父は天然痘で倒れ、高熱に冒されたために脳をやられ、死ぬまで機屋の主人として現役に復帰できませんでした。

中小企業というのは、当主がおかしくなれば経営もおかしくなるものです。父が病に倒れたとき、兄はまだ家業を継げる年齢ではなかったため、姉婿が家業の中心になっていました。しかし、うまくいかなかったようで、私が物心ついたころには、すでに家業は相当苦しかったようです。

そのころ家族と従業員あわせて30人ぐらいが一つ屋根の下に住んでいました。こういう環境で私は育ったわけです。貧しくとも人数が多い家庭は、活気だけはあるものです。従業員も家族も、同じように起き、同じ時間に食事をし、同じように団欒(だんらん)しました。住み込みの従業員も、私にとっては家族と同じで、従業員の方も、私を弟のようにかわいがってくれました。

私の生家は、祖父の兄の代まで(明治の中ごろ) 、十日町地方で長く続いた神官の家でした。江戸時代、神官は名字が許され、藤原の姓を名乗っていましたが、明治になってから白川と改めたそうです。いまでもお札(ふだ)を刷る道具も残っていますし、神棚にはいろいろな神様がいっぱい祀(まつ)ってあります。

そのせいか、家風は厳格でした。朝は6時といえば、たとえ子供であっても起こされ、家中を全員で掃除し、それから朝食をとるのです。私も5〜6歳のときから毎朝玄関の掃除をやらされました。それをしなければ朝食は食べさせてもらえなかったのです。

もともと貧しい時代でしたが、従業員も家族も同じものを食べていました。家族だけがおいしいものを食べるということは、絶対にしなかったのです。

貧しかったけれど、気位は高く、精神的なものは大切にしていました。神仏を大切にすることは徹底していて、子供だった私も、毎朝必ず神様と仏様には手を合わさせられました。そして、「白川の家はちゃんとした家柄なのだから、他人様に笑われるような真似はしてはならないのだ」と、よく言われたものです。

●自由放任の家風の下で

あの当時は、どこの家庭でもそうだったかもしれませんが、親たちは子供のことをかまってくれませんでした。今日見られるような教育加熱の時代からは想像もつきません。父兄参観日もありましたが、私の両親などは一度も顔を出しませんでした。遊びにしろ、勉強にしろ、親が干渉することなどほとんどなかったのです。

工場も住まいも一緒の家でしたから、大人たちの世界には、小さいときから興味を持っていました。いろいろな工程を経て反物ができあがっていく──。私にとっては、その一つひとつの工程がとてもおもしろく、不思議でした。「なぜ、こんなことをするの?」と、私はよく聞いたもので、工場で働くみんなは、よく説明してくれました。

昼休みや仕事が終わってから、工場の真ん中にある石炭ストーブを囲んで、従業員や兄姉たちがいろいろな話をしていました。私もその輪のなかに入って、わからないながらも、じっと耳を傾けていました。仕事の邪魔をすれば、もちろん叱られましたが、仕事の邪魔にならない限りは、仕事を見たり仕事場にいることをとやかく言われることはありませんでした。

だから、仕事の手が離れたときにいろいろなことを聞いたり、いろいろな話をしてもらいました。大人たちの仕事の世界に密着して生活した子供時代の体験は、私にとっては実に貴重なものだったと思います。

私の姉たちは、学校を卒業すると、嫁にいくまでの間、家業の手伝いをしていました。子供ながらに、私も大きくなったら家業を継ぐものと思っていました。家が倒産せず、機屋をずっとやっていれば、いまごろ私は十日町で機屋仕事をやっていたに違いないと思います。

●強者と弱者が連帯する社会

私の義務教育の期間は、1952年から1961年までの9年間でした。教育の基本理念は、民主主義ということで、平等ということが非常に徹底していました。

体が大きいからとか、勉強がよくできるからとか、スポーツがうまいからとか、ただそういうことだけでは、決してクラスで尊敬されませんでした。そういう子供を少々押さえつけてでも、勉強の遅れた子や体力の弱い子を伸ばそうという教育でした。

私にとって、授業は退屈でつまらないものでしたが、だからといって、よそ見をしたりすれば叱られました。私たちの時代の教育の良さは、勉強ができるからといって、スポーツがうまいからといって、得意になったり、いばったり、増長してはならないことをよく教え込まれたことだと思います。人間には能力にいろんな違いがあるが、みんな平等なんだということを叩き込まれました。

勉強のできない子、体力の弱い子を、みんなで引っ張り上げていくことが大切で、先に行きたくても待っていなければならない──こう教え込まれたと思います。ダメな奴は放っておけばよいのだということで、どんどん先に行ってしまうことは許されませんでした。それだけに、できる子にはできない子ができるようになるために努力することが、その代わりにできない子にはできるようになるための努力が要求されました。

私は、政治活動を始めてから、それと同じような気持をときどき持ちます。

弱者だけが保護され、そのために強者が犠牲になる社会は嫌です。さりとて、強者が能力や力にまかせて、弱者を押さえつけるという社会も嫌です。強者は弱者の立場を理解し、応援もするが、弱者も泣き言を言うのではなく、強くなる努力をする──そういう連帯感のある社会でなければならないと思います。

そういう努力をお互いにすることが、まず基本であって、なおかつ生ずる矛盾や問題は、さらに理解を深めることによって解消していく──これが自由主義社会だと思うのです。

少々行き過ぎのきらいはあったかもしれませんが、戦後の民主教育の基本は誤っていなかったと私は思っています。

●家業が倒産、家中の家具に赤紙が

1958年、私の家は倒産しました。私が中学1年のときです。再建できない状態ではなかったのですが、結果的にはダメでした。父は、家業を兄に継がせたかったようですが、兄は大学進学の夢が捨てられず、家業に身が入らない状態でした。それまで経営にあたってきた義兄も、自分が名実ともに実権がないならば、もう頑張る気はないという状態だったのです。

倒産をめぐって、何度も何度も、家族会議や親族会議がもたれました。しかし、義兄も兄も自分が中心になってもう一度頑張ってみようという気にならなかったため、ついに機屋は倒産──廃業に至ったのです。私も子供心ながら大変心配しました。もっと自分が大きければ、自分が再建してみせるのにと、幼いことが残念でたまりませんでした。

もともと以前から家計は苦しかったので、倒産したからといって、生活そのものはほとんど変わらなかったように思います。悲しかったのは、姉夫婦と甥姪が家を出ていったことと、住み込みの従業員がいなくなったことです。30人近くの大家族が急に7人家族になってしまったのです。

家、屋敷、そして田畑も抵当に入っていました。しかし、債権者の好意で使わせてもらうことができました。ただ、一人だけ強硬な債権者がいて、裁判沙汰や強制執行を受けました。

ある冬の日のことです。学校から帰ると、家中の物全部に赤紙が貼ってあるのです。お金が払えないと戸や畳までも持っていかれると聞き、私は悲しくまた不安になりました。そのとき母が、「勝っちゃん、戸なんか持っていかれても、カヤを張れば少しも寒くないから、心配しなくてもいいんだよ」といって安心させてくれたことを、今でも憶えています。カヤを張って寒さをしのぐという、母のたくましさにつくづく頭が下がりました。

●家庭を支えた古風でたくましい母

姉二人の稼ぎしかなかったのに、そのなかから借金の返済までしなければならなかったわけですから、生活は本当に苦しいものでした。高校1年生だった一つ上の姉は、高校をやめなければならないという状態だったのですが、父や姉たちが高校だけはなんとしても出してやると頑張ったので、一つ上の姉は高校をやめずにすみました。

その代わり、高校生の姉も中学生の私も、家の仕事は一生懸命手伝いました。機織りの手伝いであるくだ巻き、できた反物の配達などの手伝いをしましたし、母と姉と私の3人で野良仕事も一生懸命やりました。家の仕事が忙しいときは、クラブ活動も休むようになりました。

父も兄も仕事はあまりしませんでしたが、根が楽天的だったのか、あまり悪びれたふうもなく、自分の好きなことをしていました。母や姉たちも諦めていたというか、仕事をしないことそれ自体をあまり口にはしませんでした。明日の生活に困っているのに、政治の話や文学の話は、父や兄のおかげで絶えることはなかったのです。

そういう家庭の雰囲気は、私にとってせめてもの救いでした。貧乏ではありましたが、精神的に卑屈になることはありませんでした。政治や社会や人間の生き方などを、いろりにあたりながら夜遅くまで話してくれたのは、父や兄でした。

それだけに、母の苦労は大変だったと思います。もともとたくましい、腹のすわった母で、彼女は不平、不満をめったに口にしませんでした。与えられた環境、条件の下で、黙々と生きる古風な女性でした。

もし、こういう母がいなかったら、私たちの家庭はめちゃくちゃになっていたと思います。貧しいながらも楽しいわが家を支えてくれたのは、この母だからこそありえたと思います。

その後、兄も働くようになり、借金も完済し、私も成人しました。私が「旅行に連れていこうか?」「小遣いをやろうか?」と言っても、母は「いまのままで何もいうことがない。そんな金があったら自分のために使いなさい」と言うばかりでした。

その母も、私の初当選の日を見ることなく、1977年の10月、持病のぜんそくのため亡くなりました。

●高校進学で貧富の差を痛感

当時、地元の中学から高校に進学する率は、30〜40%くらいでした。高校に進学するのに、特別裕福である必要はありませんでしたが、ある程度暮らし向きのよい家庭でないと進学するものでないという風潮がありました。本人に進学の意志があり、その能力があっても、家庭の事情で高校進学を断念するということは決して珍しいことではありませんでした。1961年当時の、新潟県の農村部における進学の意識は、そんなものだったのです。

私も、自分の家が倒産し、世間や親戚に迷惑をかけたことを知っていましたし、私の家が迷惑をかけた親戚の子弟に、高校進学ができなかった人がいっぱいいることも知っていました。そんななかで、私だけが高校に進学することに、抵抗がなかったかといえばウソになります。私も悩みました。私が高校に進学する年から特別奨学金制度ができ、普通の奨学金の三倍の額がもらえるというものでした。運よくこれをもらえることになり、家には金銭的な負担をかけないですむことができるようになったのです。

父が「確かにおら家は貧乏だし、世間にも迷惑をかけた。しかし、なにもお前が悪いことをしたわけでないし、お前の稼ぎをあてにしなければ食っていけないわけじゃない。勝彦、お前高校に行け」と言って、賛成してくれました。家計を支えていた三人の姉も高校進学に賛成でした。

私の進学した県立十日町高校は、200人くらい応募しても、ちょうど定員と同じくらいなので、不合格になるのは2〜3人程度という高校でした。だから、受験にはなんの心配もなかったのです。ただ、高校入試の成績がトップであったということで、いろんな抵抗があるなかで高校進学を許してくれた父や姉の恩義に報いることができたと、大変うれしく思いました。

中学生の同級生にも、成績は良いけれども、高校に進学できない人がたくさんいました。勉強する気もないし、成績も良くないのに、家が裕福なので進学する人もたくさんいました。私は子供ながらに、家庭の貧富というものが、子供の一生に大きな影響を持っていることをまざまざと知らされました。社会的平等──特に、教育の機会均等ということは、以後、私の本能的信念の一つになっています。

●人生の悩みを考えるのもまた楽し

そんな成績だったので、私はなにかと注目されたことは確かです。もともと勉強したくて高校に入ったのですから、入学後も勉強は一応真面目にやりました。大学進学の希望はありましたが、国立大学でなければ経済的理由で困難であると思っていました。

東大受験ということも、意識はしていました。しかし、田舎の高校にトップで入ったぐらいでうぬぼれるなと言われそうで、誰にも言わず黙っていました。しかも、東大受験の動機は、どうせ頑張るのなら、一番難関と言われる大学に入ればそれに越したことはないだろうという、きわめて単純なものにすぎなかったのです。

そんなつもりで少し勉強を始めたところ、東大に合格するということは、大変難しいものであることがすぐにわかりました。少し成績が良いくらいでは、どうなるものでもないことがわかったのです。そんなことからでしょうか、私はなんとはなしに、生きる目的、人生とは何かを考えるようになったのです。私は、カソリックの教会にも通うようになりました。とにかく、生きることの意味や、目的を与えてほしかったのです。

わからないながらも、西田幾多郎の『善の研究』や倉田百三の『出家とその弟子』などを一生懸命読みました。倉田百三の本は、私に大きな共鳴となぐさめを与えてくれました。

友人、女の友だち、学校の先生、友人の両親などに対して、機会があれば、また強引に機会をつくって、とにかく議論しました。私の方で一方的にまくしたてるといった傾向が多かったのではないか、迷惑に思った人もかなりいたのではないかと、いま思い出すと恥ずかしくなります。

私は、人と話すだけでなく、自分一人でもずいぶん悩み考えました。勉強が終わり、寝床に入ってから、いろんなことを考え悩むのです。考えているうちに、寝つけなくなって、夜が明けるまで悩み考え、また夢がひろがるというようなこともよくありました。このころ日記もよく書きましたが、いま読み返すと、ずいぶん幼稚なことで悩んでいたと思います。しかし、自我に目覚めた少年のぎりぎりの心情はよくわかります。

私は、個々の人間の生き方に興味をもつと同時に、諸国民や民族の生き方にも興味をもちました。世界史の勉強は、私に人間世界の壮大なロマンを抱かせてくれました。特に、アメリカ独立革命、フランス革命の時代は、興味尽きないものがあり、教科書や参考書だけでなく図書館から本を借りてきてずいぶんと読みました。そして、自由主義、民主主義の思想は、これらの勉強を通じて、しだいに私の確信となって育っていったのです。

●高校時代のアメリカ行きで政治を志す

当時、小田実の『何でも見てやろう』というアメリカ体験記がベストセラーになっていました。私も読んでみましたが、これは難しくてあまりおもしろくありませんでした。それよりミッキー安川の『ふうらい坊留学記』はおもしろく、アメリカへの私の夢をかきたてたのです。

アメリカは、戦後の日本にとって憧れの国でした。AFS留学生の制度などもあり、ごく少数の限られた人たちが、アメリカに行く機会に恵まれるという時代でした。そんなアメリカに、ひょんなことから行けることになったのです。高校二年生のときでした。

ある日、英語の先生が私を呼びました。新潟県のロータリークラブで、高校生を一人だけアメリカに交換学生として派遣するが、十日町高校としてはお前を推薦するから受けてこいというのです。英語は得意科目でしたが、まさか新潟県で一番になれるとは思ってもいませんでした。東京でさえ、中学の修学旅行で一度行ったことがあるだけの私が、憧れと未知の国、アメリカに行けることになったのです。最初はどうしても実感がわきませんでした。

1963年8月の1カ月間、私はアメリカに滞在しました。私はアメリカに着くまで、アメリカ人と英語で話したことも、会ったことすらもありませんでした。

アメリカに滞在して思ったことは、アメリカという国はとほうもなく豊かな国であるということの一言につきます。新潟県の片田舎の生活しか知らない高校生にとって、アメリカのロータリアンの裕福な家庭の日常生活や生活環境は、ただただ驚くばかりでした。当時は、ケネディ大統領の時代で、アメリカが最も自信と活気に満ちているときでした。

このアメリカ行きを機に、私は政治を真剣に勉強しようと決意しました。アメリカがこんなに豊かなのに、日本はなぜこんなに貧しいのか。こうした貧しい経済のなかに住んでいる人間は、やはり基本的にみじめになります。もっと日本を豊かにし、アメリカ人が自由を謳歌しているのと同じように、日本人も一人ひとりの可能性をもっと発揮できるような社会をつくっていかなければならない。そのためには政治がもっとしっかりしないとダメなんだ。まず政治というものをじっくりと勉強しよう。私はそう考えたのです。

私を政治の世界へ導いてくれた、このアメリカ行きの機会が与えられたことを、いまでも深く感謝しています。

●守り地蔵に祈願してくれた母

政治家になる。そのためには東大法学部に入ることが一番の近道だ──こんな単純な発想から、私は東大受験を決意し、受験勉強を本格的に開始しました。

東大受験を決意した私は、母に頼んだことが二つあります。一つは、夜遅くまで勉強していると腹が減るので、夜食をつくってほしいこと。もう一つは、冬の間、私が学校から帰るまでに、練炭火鉢を用意して、部屋をあたためておいてほしいということでした。

1年半の間、母はこの二つをきちんとやってくれました。夜の11時ごろになると、母は起きて、夜食をつくって12時ちょうどに私のところへ運んでくれました。尋常小学校しか出ていない母ではありましたが、東大受験という難しい目的に向かって息子が必死に頑張っているのだということは知っていました。自分のできることは、おいしい夜食でもつくってやることだけなのだ、ということでやってくれていたのだと思います。

ときには眠くなって、もう今日は早めに寝ようかと思うことが、何度もありました。しかし、それではせっかく起きて夜食をつくってくれる母に申し訳ないと思い頑張りました。母のつくってくれた夜食を食べながら、母と雑談したことは私の人生の楽しい思い出の一つです。

あとで知ったことですが、本格的に受験勉強を始めたときからの1年半、母は近所の守り地蔵に、毎日合格を祈願しに行ってくれていたそうです。運良く私は1回で東大に合格しました。私は、それ以後なにか重大な決意をして行動を起こすときには、守り地蔵に祈願してくれるよう母に頼みました。

2. 学生運動のなかで──

●寮生活で社会主義思想に出会う

東大に入学して一番うれしかったことは、いろんな問題について真剣に話し合える仲間がたくさんいたことです。東大には学生寮がたくさんありましたが、私は一高時代から名高い駒場寮に入りました。寮生数750人の全国一のマンモス寮です。

駒場寮は、昔から自治意識が強く、大学から助成金はでていましたが、運営はいっさい寮生が取り仕切っていました。寮付属の食堂経営までやっていたのです。

駒場寮のいま一つの特徴は、サークル制の部屋割でした。気の合った者同士でサークルをつくり、そのサークルで一つの部屋をとるのです。一つのサークルとなるためには、最低でも五人いないと部屋を確保することができません。サークルは、空手同好会や野球同好会など運動系のサークルと、そうでないサークルに大きく分けることができました。

私はそれまであったどのサークルにもなじめず、友だちを見つけて「平和研究会」というサークルをつくりました。でも平和研究会そのものとしては、特別な活動はありませんでした。

駒場寮は、大きな部屋に5〜6人が雑居します。間仕切りもなにもない部屋で、本立てで仕切りらしいものはできますが、とても一人静かに勉強や思索をするというようなことは望めません。部屋には常時誰かが遊びに来ていましたから、いつもにぎやかでした。

こういうことに耐え切れなくて寮を出て、下宿をする人もいましたが、私はもともと大所帯のところには慣れていましたし、人と話し論じ合うことが大好きだったので、いっこうに苦にはなりませんでした。むしろ寮生活の良さ、楽しさを満喫していました。

田舎の保守的な家に育った私にとって、なんといっても驚異だったのは、社会主義的思想・人物との出会いでした。東大は昔から学生運動の盛んなところで、社会主義思想を理念とする団体やサークルがいっぱいありました。社会主義思想といっても、学生団体のものですから、頭でっかちで地に足がついたものとはいえませんでした。しかし、それだけにかえって強烈な影響を受けたのです。

マルクスやレーニンのことは、歴史上の人物としては知っていましたが、その理論や社会主義者と称する人に接するのは初めてでした。最初は、学生運動家の理論や行動や心理をほとんど理解できませんでしたが、しだいにわかるようになってきました。私は、マルクスやレーニンの本をむさぼるように読みました。日本における社会主義革命の可能性は、現実問題としては考えられないことは直感的に感じましたが、社会主義理論の体系と現実への厳しい大胆な批判については、大いに興味を感じました。

ソ連、中国という当時の世界の二つの大国を動かしている社会主義理論や思想に対して、一部の学生のように「あんなものはくだらん。さわらない方がよい」ということで、関わり合わないというわけにはいきませんでした。良いか悪いかは、食うか食われるかのぎりぎりの思想的対決をした後でなければ決めてはならないと思い、その後、私は社会主義理論の勉強を一生懸命やったのです。

主義主張については、とことん納得がいかなければ採用しないし、その代わりひとたび、その主義や主張が正しいと確信したならば、どんなことがあっても信念として守る、主義だとか主張だとかは、そういうものだという考えが私にはありました。

自分の体験や経験に照らし、得心がゆくまでは常に批判的に見る。私はそういう態度をもって社会主義理論を学習し、社会主義者の学生とも接してきました。このことがあったから、私は、最終的に社会主義者にならなかったのだと思っています。

●教育の機会均等のための寮運動

学問をすればするほど、私はいままで知らなかった新しい世界を知ることができ、社会や人生をより深く理解することができました。それは生きる喜びを深め、人生にかぎりない興味と意欲をかきたてました。このような実感は、大学に入学し、優秀で気のおけない友を得ることによってますます大きくなっていきました。

私の家は貧しかったのですが、父母や兄姉の温かい理解がありました。また月8,000円の特別奨学金をもらうこともできました。授業料が安い国立大学に運良く入れ、生活費が安くあがる学生寮に入れたからこそ、こうした大学生活の喜びを知ることができたのです。このうちどれか一つでも欠けていたら、私はこうした大学生活の喜びを知らない人生を過ごしていたに違いありません。

家庭の貧富の差、それが教育の機会均等を実質的に妨げ、人間の天賦の才能の開化を阻む。それは残酷な社会的不正義だ。私は本能的にそう思いました。

学生寮の存在も、まさに教育の機会均等を実現する役割を果たしていたわけです。

寮に入ってまもなく、私の親しい先輩たちが全国学生寮自治会連合(全寮連)の再建にとりくみつつあり、彼らが訴えていた「希望者全員が入れる学生寮をつくれ」というスローガンは、私の心を強くとらえました。

私のいとこが東大に入り、この運動に参加していた関係もあって、私も自然とまきこまれていきました。全寮連は前からあったのですが、3〜4年間崩壊状態にあり、それを再建しようということで、その事務局が駒場寮にできたのです。

私は、ビラ刷り、封筒の宛名書き、ポスターづくりといったムスケル(肉体労働を意味する学生用語)を一生懸命手伝いました。

私はまだ、学生運動のことはよくわかりませんでしたが、ムスケルが終わったあと(普通午前2時〜3時ごろになります) 、みんなで食事にいき、いろんな話を聞くのが楽しかったのです。全国から集まった、経験を積んだ学生運動家は能弁で、かつ有能な人ばかりでした。私は、深く尊敬しました。全寮連の主力活動家は、理論闘争ばかりしている学生自治会の活動家に比べて、理論や発想が地についていました。

このようなところに出入りしていたので、私は大学入学から2カ月後には、もう駒場寮の副委員長に選ばれました。駒場寮の学生数は全国一ですから、全寮連の会合でも発言力は非常に大きなものがありました。私は、対外活動を担当する副委員長でしたので、いろんな集会や会議に出席してとにかく発言しなければならない機会が多く、勉強せざるを得ませんでした。

以来6年間、私は都寮連(東京都学生寮自治会連合)や、全寮連書記局、東大豊島寮委員長などを歴任し、寮生活の向上発展のために、いささかなりとも寄与することができたと思っています。また、寮運動で身につけた考え方、心構え、組織運営の仕方などは、その後の政治活動にずいぶんと役だったと思います。

●自分を犠牲にすることへの戸惑い

あまり学生運動を激しくやると、就職や将来に傷がつくと言われていました。そのため、学生運動に興味や関心があっても、それに深入りすることを躊躇する傾向が多くの学生にはありました。大学卒業後、大蔵省に入り、いつか政界に打って出るという官僚出身政治家のパターンを知っていた私にとって、自分があまり深く学生運動にのめり込むということは問題だと悩みました。

しかし、いま目の前につきつけられている問題を避けて、いつ来るかわからない将来のために生活や勉強だけをしていてもよいのだろうか。そんな生活態度では、たとえ政治家になっても、保身を第一とし、結局はたいしたこともできない政治屋になるのがオチだろう。こう考えて、私は何よりも自分の目の前にある問題(教育の機会均等を実現するための寮運動に参加すること)を避けてはならないと決めたのです。

私も学生の一人でしたから、もう少し自分の学生生活を豊かな実りあるものにしたいという希望はありました。寮運動にのめり込んでしまうと、とても学校の勉強どころではありません。いつの時代もそうですが、自分に直接関係のあることに積極的に行動する人は多くても、そうでないことに積極的に参加する人は少ないものです。

しかし、政治というものは、社会のために汗水を流すという活動を通じて、初めて体得できるものではないでしょうか。学生時代の寮運動への参加は、自分なりに確信をもってやったことですから、私は後悔していません。でも、個人的に払った犠牲は大きかったと言えます。

●進路に悩んで留年そして司法試験

大学4年のなかばになると、学生はそれぞれの将来が決まってきます。大学院に進み学究の徒をめざす者、司法試験をめざし法律の世界で生きようとする者、上級公務員試験に合格して官僚となろうとする者、一般の会社に就職しようとする者……というように、それぞれが真剣になるわけです。

一般の会社に就職しようという場合は、特別な準備は必要ありませんが、それ以外の場合は、3年生のときからそれなりの準備をしておかないと希望を達成することは難しいものがあります。

ところが、私は寮運動を一生懸命やっていたため、将来のことについては頭のなかに何もなかったのです。もちろん、司法試験や上級公務員試験の準備などもしていませんでした。

6月ごろから就職のための会社訪問が始まります。私も友人に誘われていくつかの会社をまわり、採用の内定をもらいましたが、どうしてもサラリーマンになる気にはなれなかったのです。

私は、卒業後の進路について納得のいくまで徹底的に考え抜きたいと思っていました。よくよく考えましたが結論は出なかったので、留年することにしました。無選択という選択をせざるを得なかったわけです。こうした選択も人生にはときおりあるものです。

しかし、無選択という選択は、人が考えるほど楽な選択ではありません。私の留年を認めてもらう条件として、司法試験を受けるように兄から言われました。私も法学部の学生でしたし、何かしながら1年の間に将来のことを決めればいいと思い、4年生の10月から司法試験の勉強を始めました。

法律は難しいと言われていましたが、政治と経済に関する専門書を相当読んでいた私には、法律の本はそれほど難しいものではありませんでした。法律の勉強になじむまで少々抵抗はありましたが、勉強を始めて2カ月ぐらいで、法律はなかなかおもしろいものだと思えるようになったのです。

特に憲法、刑法、刑事訴訟法、労働法はとてもおもしろかったですし、興味もありました。私は、憲法の勉強を通じて、自由主義思想の活力と、民主主義の具体的実行方法を知りました。刑法、刑事訴訟法の勉強では、人権の尊重のためにどのような方法が必要かを教わることができました。労働法と社会政策の勉強では、労働者の権利の発展と、これからの資本主義経済のめざすべき方向について身につけることができました。

わずか9カ月の勉強期間ではありましたが、一生懸命やったおかげで、幸運にも司法試験に合格することができました。

学生運動を一生懸命やっていたため、私が4年生の10月まで法律の勉強をしていなかったことは周知の事実でした。それがわずか9カ月の勉強で司法試験に合格したということは、ちょっとしたニュースになりました。以後、それまで司法試験は難しいということで挑戦すること自体を躊躇していた友人たちの多くが、司法試験を受験するようになったのです。

真面目な動機と健全な感覚で学生運動を真剣にやってきた者は、自分の小さな利益のためにガリ勉をしてきた人より優れたものをもっています。私と一緒に学生運動をやってきた友人のなかから、優れた法律家が多数生まれているのは当然のことだと思います。

●東大紛争で過激派学生と対決

司法試験の勉強がちょうど終わったころ、東大紛争が社会の大きな注目を集めるようになりました。東大紛争は、1968年の6月ごろから燃え始めたものですが、そのころから収拾されるまでの約1年間、私も大学改革のために積極的に参加しました。

東大紛争は、医学部のちょっとした紛争が全学部に飛び火したもので、もともとは非民主的な大学運営を改善しようとする大学改革運動でした。しかし、一部の学生などの意図的な扇動で、安田講堂の攻防などという事態を招いてしまいました。私は大学改革を真面目に推進する立場から、過激派学生の動きには断固として対決する立場を貫きました。そのためゲバ棒で殴られたり、石をぶつけられることもありました。私の額の大きな傷は、そのときのものです。

東大紛争は、確かに大きな事件でした。局所的な事件としては、戦後の歴史に残るものとなるでしょう。しかし、事件の大きさの割には、それによって得たものは少なかったように思います。

私はこの紛争の渦中にいて、多くの人が群衆心理によって、平時では考えられない行動をとることを知りました。冷静さを欠く、無責任な行動も多くありました。大学入学以来、寮運動を一生懸命やってきた私には、それまで私たちの訴えになんらの反応も示さなかった学生が、ある日突然、革命家然として行動するのを見ると、これはあまり信用できないと思えて仕方がありませんでした。

大山鳴動して鼠一匹という感じがしないでもありませんでしたが、1969年4月ごろには紛争はひとまず収拾しました。卒業がストによって六月に延びたため、司法研修所の入所が遅れ、私はさらに大学にとどまることになりました。

東大紛争の反省と虚脱感もあり、この1年間は、読書三昧の日々でした。大学に6年もいたため、大学というのはきわめて退屈なところと思うようになりました。議論ばかりで、実際の社会の生活と関係のない生活がつくづく嫌になったのです。

●健全な自由主義が左翼の台頭を防ぐ

1970年4月から1972年3月までの2年間、私は司法研修所に入所しました。司法修習生には給料が支給されます。裁判官、検察官、弁護士となるためには、原則として司法修習を2年間受けなければなりません。

特に、法律家になろうとする決意があったわけではありませんが、自分が一生打ち込めるだけの職業も見つからなかったので、とりあえず司法研修所に入所することにしたのです。

長い間、政治活動の場に身を置いてきた私には、法律の世界は非常に無味乾燥で、活力のない世界に思われてなりませんでした。ただ、法律の世界で一つだけすばらしいと思ったことは、お互いに冷静かつ真剣な論議をするということです。政治の世界の論議、特に左翼といわれる人たちの論議は、相手を論破するためだけの論議が際限もなく延々と続きます。そういう世界を長く見てきただけに、冷静かつ真剣に相手の主張にも耳を傾ける法律家の論議は、新鮮なものでした。

司法修習生は研修所で勉強するだけでなく、裁判所、検察庁、弁護士事務所で、実際の事件を通じて法律の実務を学びます。私は新潟地方裁判所に配属されて実務修習をしました。新潟における1年半の実務修習は、忘れかけていた地方の良さを思い出させてくれました。

また、当時、新潟地方裁判所に係属し全国の注目を集めていた新潟水俣病裁判を身近にみて、公害の悲惨さを知り、被害者救済のために法律家が大きな役割を果たしていることを身にしみて感じました。

私が司法修習生であったころ、青法協(青年法律家協会)問題がさかんに取り上げられていました。宮本裁判官に対する再任拒否、青法協会員の裁判官任官拒否などです。私と一緒に机をならべて勉強した友人も任官を拒否されました。青法協という若い進歩的な法律家団体に対し、なぜこうも目くじらをたてる必要があるのか、私には理解に苦しむものがありました。

古い保守主義者は、左翼思想や左翼団体というものに、神経過敏症的なところがあると思いました。思想の自由、結社の自由は、憲法が最も大切にする基本的人権の一つであり、この憲法の大原則を損なうようなことは、どんな理由があっても許されないはずです。

左翼思想や左翼団体によって、社会の秩序や自由社会が脅かされることを防ぐためには、健全な自由主義、民主主義の基盤を確立する以外に道はありません。このことは、冷戦構造が崩壊した今日、特に大事なことであると私は思います。

そして、健全な自由主義、民主主義を実践し、自由にして公正な社会を築くならば、圧倒的な国民は迷うことなく、自由社会を選択すると私は確信しています。

●弁護士にはなったけれど

1972年4月に、司法修習を修了した私は、まだ法律家として一生をすごすという決心がつかなかったので、裁判官、検察官、弁護士のいずれの道も選ばずに、しばらく郷里に帰ることにしました。そして、兄の会社の仕事を手伝いながら、自分の郷土の現状をこの目で見てまわったのです。

山間部の村の知り合いのところに泊まり、いろりを囲みながら、いろんな話を聞かせてもらいました。過疎のせつなさ、寂しさを私は肌で感じました。かつては、活気にみなぎっていたわが郷土のコミュニティーは、経済的にも精神的にも徐々に活力を失っている気がしてなりませんでした。高度経済成長は、経済力も人材も都市に集中させてしまい、そのツケが地方に回されていることを肌で実感しました。

ちょうどそのころ発表された田中角栄氏の『日本列島改造論』を読み、この人は日本の現実を知っている政治家だと思いました。過疎の村の実態を肌で感じとっていない者に、あの発想は生まれません。私は、郷土再生の道をもっと勉強し、いずれは政治の道で郷土のために尽力したいと思いました。そのまま政治活動を始めることも可能性としてはあったのかもしれませんが、1972年8月、交通事故にあいました。運転中追突され、かなり重いムチ打ち症になってしまいました。とても政治活動を始められるという健康状態ではなくなりました。

やむを得ず、私は東京銀座にあった法律事務所に勤めることにしました。のんびりとしたあまり忙しくない事務所だったので、法律事務を学びながらいろんなことができました。しかし、個別の紛争の処理だけを中心とする弁護士という仕事に、一生を捧げる気にはどうしてもなれませんでした。そして、より社会的な問題に取り組みたいと思うようになり、転身をあれこれ考えたのです。

結局2年たらずで、私はその法律事務所を辞め、これからのことを考えることにしました。1974年12月のことです。

3. ガリ版のビラから生まれた自民党政治家──

●38万円を手に代議士へと一念発起

忘れもしない1975年10月14日午後7時19分、私は最終の新潟行特急「とき」の車中の人となりました。二トントラックの半分にも満たない私の全財産(といっても、本と机だけでしたが)は、前日すでに送ってありました。ふところには、東京での弁護士生活の蓄えの残り38万円が入っていました。見送りの人もいない寂しい旅立ちでした。

「今度、東京の土を踏むときは、胸にバッチを着けて踏むぞ」といった気負いは別にありませんでした。ただ、サイはすでに投げられた。もう思い悩むことは止めようという気持でした。自らが選んだ前途に不安はもちろんありましたが、一方では、この1年間の長く苦しい悩みから解放されたという快さもありました。

その日、私が衆議院選挙に出馬するために郷里に帰るということを知っている人は、ほんのわずかしかいませんでした。それは東京と十日町の私のごく親しい友人十数人と、実家の家族と、田中角栄元首相だけでした。

東京でうだつの上がらない弁護士をしていた30歳の一青年が、なぜ地盤・看板・カバンのどれもないのに、衆議院選挙に出馬するなどという“無謀な野心”を抱いたのでしょうか。いろいろなきっかけはありましたが、一言で言えば、30年という短い人生の一つの総決算に立った結論であったとしか言いようがありません。

高校卒業後、私は政治を勉強したくて東大法学部に入学しました。そして、学生運動に大半のエネルギーを燃やしてきました。大学五年生のとき、東大紛争が起こりましたが、そのなかで左翼運動なるものに幻滅を感じ、一人の自由主義者として生きることを模索してきました。その後の司法修習生、弁護士としての生活環境は、自由主義者として生きることを考えるには適したものでした。

私の大学時代の友人は、ほとんど左翼とよばれる人たちでした。彼らの多くは、卒業後も活動を続けていましたが、私には挫折感はありませんでした。しかし、自由主義者として左翼には負けていられないという対抗意識は強くありました。そして何よりも当時の私は、現実に妥協することがあまり得意ではない晩成(おくて)の青年だったのです。

●真の自由主義を求めて出馬を決意

私に「衆議院選挙に出てみたら」と扇動したのは、私の一人しかいない兄でした。このように扇動した人は、あとにも先にも、この人しかいません。それは私が二八歳のときでした。初めてこのようなことを言われたとき、私は冗談だと思いましたし、私に対する買いかぶりだとも思いました。しかし、この兄の扇動は、かなり執拗で再三にわたりました。

衆議院選挙に出馬しても、当選はきわめて困難であろうということが、私を迷わせたことはウソではありません。可能性の大小は、物事を判断する場合の大きな要素です。しかし、政治を少しは勉強してきた私でしたから、政治家の一生が厳しいものであることぐらいの認識と覚悟は持っていました。私を迷わせたのは、自ら好んで政治家としての厳しい人生をあえて選択すべきか否かということだったのです。

政治は社会の進歩に大きな力を果たすという、素朴な信仰が私にはありました。だからこそ、それまでも政治に情熱が持てたし、これとまったく関係なく生きていくことは、社会の進歩に対し無関心な生き方でしかないと思われました。

私は、社会主義を学びはしましたが、社会主義者とはなりませんでした。私は、自由主義社会の方が、人間が人間らしく生きられる社会だと思ったからです。しかし、いかなる体制もそうであるように、この社会には矛盾や間違いはいっぱいあります。自由主義者は、何よりも自由を愛する者として、自由主義の立場からこの矛盾や問題に真剣に取り組む義務があります。そうでなければ、自由な社会は守れないからです。

自由主義者は自由な社会を守る立場にはありますが、だからといってその社会の改革を放棄するものではありません。当時革新とよばれていた左翼が提起している問題のほとんどは、自由主義の立場からしても問題なのであり、自由主義社会のなかで、自由主義的な手段を用いて解決できる問題なのです。そのような問題を、左翼の手や運動に任せておくこと自体が、日本における自由主義者の怠慢であると私には思えました。

さまざまな逡巡はありましたが、こうして、自由主義の政治家として立候補する決意はしだいに固まっていったのです。

●田中角栄元首相に会うことを試みる

衆議院選挙の出馬への意向をほぼ固めた私は、一つの瀬踏みを行いました。長くつき合っていた学生時代の友人の多くは左翼が多かったのですが、この人たちに相談することは無意味だと思いました。そこで、私は政治的・社会的なことにあまり深くかかわったことのない友人たちに集まってもらい、衆議院選挙に出馬しようと思っていることを初めて相談しました。

親しい友人とはいえ、冗談ではなく、出馬の意図があることを真面目に打ち明けるということは、かなり勇気のいることでした。

みんなは真剣に受け止めてくれました。議論は百出しました。あまりにも唐突で無謀すぎる行動ではないかという意見や、十分な準備もないままに選挙に打って出てみじめな得票しか得られなかった場合の悪影響を考えたら、もう少し手順を踏んで看板らしき肩書き(大物代議士の秘書、地方議員など)を身につけてからの方がよいのではないかという意見、活動資金はどうするのか、などでした。しかし、最後には、私の気迫に押されて、出馬もやむを得ないのではないか、というような雰囲気になりました。

私は、郷土の大先輩の田中角栄元首相に会うことを試みました。それには二つの理由がありました。一つは、十日町の親しい友人たちが、田中氏かもしくは他の領袖と会い、そのお墨付きをもらうことを強く望んだからです。いま一つは、私も新潟県の保守政界で行動を起こす以上、この人だけには仁義を切っておきたいと思ったからです。

●「理屈ではない、足で勉強しろ」

私は、田中氏一本に絞って会見することを試みました。かなり長い面談要望書をしたため、目白の田中事務所に届けました。10日ほどたって、田中事務所から明日午前8時半に来いという電話がきました。翌日、私は目白の事務所を訪問し、かれこれ1時間ほど待ったころ、奥の応接室からおよびがかかったのです。

「いやいや待たせてすまん。君とはゆっくり話したかったんで、いちばん最後にしたんだ。かんべんしてくれ」

これが田中氏の最初の言葉でした。こういったところが、この人の人心を惹きつけて離さない点なのでしょう。

第一回目の面談は、田中氏の一方的な言いっ放しでした。

「新潟四区から衆議院に打って出るところに目をつけたのは、なかなかいい着眼だ。新潟四区には保守の派閥は確かに三つあるが、いずれもそんなに強い派閥ではない。はっきり言って弱い派閥だ。君の努力しだいでは、当選することも可能である。

君のことは、十日町市長にも問い合わせてみたが、君の家も昔はなかなかの家であったそうだし、君自身もちゃんとした人間のようだ。

選挙で大切なものは、要するにタマなんだ。タマが悪ければ、いくら金をつぎこんだところでどうにもならない。このことがわからないバカがいっぱい私のところに来るが、要するにタマなんだ。

一生懸命勉強しろよ。理屈だけでなく、足でも勉強しろよ。みんなワシのことを天才などとぬかすが、そんなことじゃないんだ。俺は昔、選挙区を足で歩いたんだ。1時間も2時間も歩いていってやっと一つの集落にたどり着くんだ。その集落の入り口に一つの橋があった。この橋の名前なんて一生たったって忘れるものじゃないんだ。足で勉強するとはこういうことだ。

選挙なんか、1回や2回落っこちたってかまいはしない。それよりも政治にかける信念が大切なんだ。岩をも貫く信念がだ。そのことをよく考えて、もう一度来い。どうしてもやるというなら、俺は邪魔をしないし、誰にも邪魔はさせない」

私は、1時間も時間を割いてくれたことを感謝して退席しました。

●「君の顔はなかなか政治家に向いている」

それから10日間ほど、田中氏の言われたことを反芻(はんすう)し、最後の決断をしました。そして、再度、田中氏にお会しその決意を伝えました。

「そうか、しっかりやれよ。俺は最初に会ったときから、君はどうしたって出る決意だと思っていた。君ならいつかきっと当選する。

第一に君のお父さんは、長年十日町の地場産業である織物業を通じて、郷土の発展のために尽くした人だ。君はその息子である。郷土のためになろうとする血筋が君には流れているのだ。

第二に、若いときから苦労している。苦労を知らない人間には政治はできない。

第三に、君は田舎の学校から東大に進み、それでありながら民間人として生きてきたところがよい。

第四に、君の顔はなかなか政治家に向いている。あまり東大出のようにも見えないし、さりとてそれほど崩れてもいない。やると決めた以上、最後までやれよ」

そして、わざわざ玄関口まで送ってくださり、別れ際に、

「いいか、白川君、きっと当選して帰ってこいよ」

と固く手を握り、激励してくださったのです。

その後、田中氏の身の上には、ロッキード事件などさまざまなことが起こり、自民党代議士となった私は、田中的政治と戦い続けてきました。しかし、私は、政界出馬にあたり、心から激励してくれたただ一人の政治家、田中氏の厚情を忘れたことがありません。

●ゼロからのスタート

馬声明は、地元の新聞『十日町新聞』に載せてもらいました。共同記者会見をして出馬を発表するなどということは、当時思い浮かばなかったからです。あまりに突然の、見る人が見れば無謀ともいえる声明であったため、一部には半信半疑で受け止める向きもありました。しかし、発表と同時にさっそく熱烈な支持を寄せてくれる人もあり、涙が出るほどうれしく思いました。

新聞発表後、応援しようとする人々が続々とわが家に集まってきてくれました。何もかもが初めての経験ばかり。私たちは、私の地元の地区で第一回の演説会を開催することとなりました。手書きのポスターを貼り、ガリ版のビラを全戸に一軒一軒配りました。

地元なので私も全戸にお願いにあがりました。最初はこれが恥ずかしくて仕方がありませんでした。選挙に出ることを決意したくせに、こんなことが恥ずかしいとは何事かと、人は思うかもしれません。しかし、当時の正直な気持はそうでした。私はかなり照れ屋なのです。

「白川勝彦です。あさって演説会をやりますから、できましたらお出でください。どうか、よろしくお願いいたします」

私は、一軒一軒こう言って回りました。私をよく知っている人もいれば、私も知らないし、相手も私を知らない家がいっぱいありました。しかし、さすがに地元のなかの地元。みんな温かく対応してくれました。一番嫌な、完全に無視されるという対応は、さすがに一軒もありませんでした。

第一回の演説会の夜。とりあえず結集した同志たち30人くらいが、ともかく全力をつくして準備しました。みんな不安な気持で定刻を待っていました。ところが、結果は500名を超える大盛況。これが事実上の最初の決起大会となりました。

満堂を圧する聴衆500名を擁した第一回演説会の光景と感激を、私はいまでも忘れることができません。会場は私の生家の真ん前の真浄院というお寺でした。

●雪深い集落へ、断崖絶壁あわや転落

この演説会の成功に勇気づけられた私たちは、十日町市や中魚沼郡の拠点で次々と演説会を開いていきました。手書きのポスターを貼り、ガリ版のビラを配るという、第一回のやり方とすべて同じでした。そういう意味では、私はガリ版のビラから生まれた政治家だと言えます。

これに新しい武器として、街頭宣伝車が加わりました。後援会も有力なツテもない段階での演説会としては、どこも大盛況と言っていいものでした。なかには、聴衆わずか五名という演説会もありましたが……。しかし、当日参加した五名がその後で筋金入りの同志として運動してくれる人たちとなったのです。

中古のジープを購入し、雪をかきわけて、どんな集落にも出かけて行きました。ある集落の演説会のことです。途中までは道が良かったので、雪のなかを快調にとばしていったのですが、だんだん様子がおかしいことに気がつきました。

道幅はどんどん狭くなり、除雪もされていない。左端は20メートルの断崖絶壁です。これは危険だと思いましたが、もうバックすることもUターンすることもできません。仕方がないので、とにかく必死になってジープを前に進めました。何度もヒヤリとしましたが、なんとか目的の集落に着きました。このときは、さすがに全身から力が抜けてしまいました。

出迎えてくれた集落の方々も、「よくもまあ、あの道を来たものだ」とあきれていました。そのためでしょうか、わずか25戸の小さな集落でしたが、集会場は40人の聴衆でいっぱいになりました。私が、「白川、命をかけてこの道を直します」と力説したので、満堂喝采しました。

こうした活動をしながら、その後、政治事務所も持つことができ、後援会も組織され、わが陣営も、徐々に衆議院選の候補者らしい態勢が整っていきました。

まず決断する。そして、走りながら態勢を整える──この行動パターンは私の習癖ともいえるものかもしれません。

●資金不足をカンパでしのぐ

保守政治の刷新を訴える私の主張への賛同者も、次々と広がっていきました。

もともと私の手持ち資金は、38万円しかありませんでした。こんなものは事務用品や雑費ですぐになくなってしまい、以後は兄に全部活動資金を出してもらっていました。しかし、兄とてそんなに余裕のある身ではありません。たちまち私たちの資金は、数カ月もすると完全に詰まってしまいました。

青年幹部に相談したところ、「この際、有力者に奉加帳を回して資金を確保しようか」という意見も出ましたが、青年幹部たちは、「ここは自分たち青年幹部の力だけで活動をやり抜いた上で、有力者に奉加帳を回そう」ということになり、呼びかけに応じてこれまで手弁当で活動してきた若い青年同志たちが、活動資金を1万円,2万円とカンパしてくれたのです。

まさにゼロからの出発でしたが、それは選挙に必要な地盤、看板、カバンが揃っていないという意味だけでなく、もっと深い意味においてゼロからの出発であることに気がつきました。それは、政治運動、選挙活動を組み立てていく原理・原則というものを、あらかじめきちんと持って出馬に踏み切ったのではなかったということです。

依るべき先輩政治家も、頼るべき運動論も、支えとなるべき資金も一切ありませんでした。そんな状態からのスタートは、ちょうど人跡未踏の山中に、地図も磁石もなしで道をつくるようなものです。一瞬一瞬の決断の積み重ねのみが、密林を拓く蛮刀です。振り返る余裕などありません。後ろに確かな道ができているかどうか、それすら定かではありません。しかし、停滞は死です。わずかな迷いが大きな過ちを生むこともあります。先頭に立つものの決断しか頼るものはありませんでした。

●総決起大会の大成功が他派を刺激

1976年の8月に入ると解散・総選挙の気配が濃厚となってきました。私たちも早急に態勢を整える必要に迫られました。そのため、十日町・中魚沼地区において、総決起大会の開催を企画しました。目標を2,000名動員と決めました。これは当時としてはかなり大胆な目標でした。私たちは不屈の闘志をもって、全員が全力をつくしてやれるだけやってみようという気持になっていました。

この総決起の大会の準備は、これまでの戦いとはずいぶんと異なったものとなりました。これまでの企画は、若いスタッフが中心でしたが、年配の後援会幹部の方々も事務所に頻繁に顔を出すようになり、老・壮・青が和気あいあい一体となって活動しました。

十日町・中魚沼地方は、旧盆ですが、8月13日夜のお墓参りは、最も大切な年中行事です。このお盆の日にも数千枚のビラをまき、道行く人々をびっくりさせました。ポスターも貼れるところにはすべて貼りました。

当日は、台風の余波で、豪雨に見舞われました。果たして2,000名を結集できるかどうか、最後まで不安でした。しかし、蓋を開けてみると、豪雨のなか、各地から同志が続々と押しかけてきてくれました。会場の入り口で迎えに出ていた私は、一人ひとりと握手をし、「ありがとうございます。ありがとうございます」とお礼を述べました。

立候補の表明からわずか1年足らず、中央や地元の政治家の応援が何もない決起大会ではありましたが、実に4,000名の大集会となりました。いかなる困難があろうとも、絶対にこの戦いを勝ち抜くと、私は決意を表明しました。

4,000名の同志のなかに、幼い孫2人を連れて会場の中央に座っていた母の姿を見つけました。私の選挙をいつも案じていたのはこの人でした。1年後、この母は急死し、こういう会での母の姿を見ることは、永久になくなってしまいましたが、私はいまでもことあるごとにこのときの母の視線を感じます。

十日町・中魚沼地区はじまって以来の大集会の反響は大きなものがありました。私たちのなかにも、もしかして勝てるかもしれないという希望を生み出しました。しかし一方では、この大成功は他派を大いに刺激することにもなりました。「白川、あなどるべからず」という雰囲気が急に強くなり、建設業界などは、取引業者を通じてしめつけを露骨に強化してきたのです。

しかし、選挙区の有権者の4分の3を占める上越地区の活動が決定的に不足していました。当選のカギはここでの活動がどの程度基盤をつくれるかにありました。必死になって取り組みましたが、やはり厚い壁がありました。10月に上越地区においても総決起大会を企画し、動員目標を200名と決めて取り組みましたが、結果は80名。上越地区における状況の厳しさを、改めて認識せざるを得ませんでした。

●「もしや…」の期待かなわず落選

1976年11月15日、私の初めての衆議院選挙の幕が切って落とされました。

立ち会い演説会は、選挙戦の柱です。立候補表明以来、常に有権者一人ひとりに直接自分の信念・政治哲学を吐露し、それに耳を傾けてもらい、理解し支持してもらうというのが、私の運動の基本であり中心でした。

何十万というガリ版のビラに私のすべてをさらけだし、執拗なまでに配布して歩いたのは、有権者に自分の生の姿を知ってもらいたいためでした。そういう意味で、声を限りに自分の考え、方針を訴えることができる立ち会い演説会は、私にとっては格好の戦いの場であり、さまざまな不利な状況を跳ね返す好機でした。

演説に熱が入ってくると、タスキをはずして背広を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げる私の姿は、立会い演説会における私のトレードマークとなりました。

私の出馬が選挙区全体に及ぼした影響は、私の予想をはるかに超えるものでした。無風選挙区が、一転して激戦区になったという報道もされました。

私の選挙は、周到な計画や巧妙な戦略もなく、ただただ、がむしゃらに突っ走るようなものであったかもしれません。ただとにかく精一杯やったので、「ひょっとすると」というようなかすかな期待を抱いていたことは事実です。

しかし、選挙というのは冷厳な現実です。選挙の結果は残念ながら落選でした。初挑戦で3万票余を獲得できたとはいえ、最下位当選者とはまだ2万4,000票の差がありました。

次回に望みをつなぐかなりの実績ともいえますが、期待していた票を集められなかった悔しさ、自分の無力さへの情けなさ、さらに自分一人で始めた戦いに多くの人を巻き込んだあげく、負け戦(いくさ)としてしまったことへの責任……。

出馬を決意してから1年2カ月、その年月の重みが改めて私を押しつぶすように押し寄せてきました。なにかとてつもないことをしでかしてしまったような気がし、冷たい寝床に横たわっていると、新たな涙がとめどなく流れました。私が人生で初めて味わった大きな挫折でした。

●捲土重来を期しての試練の日々

尽きることのない涙を振り払うようにして投票日の翌朝から、私は再び活動し始めました。まず、選挙のお礼と挨拶回りに選挙区を歩き始めました。素人集団の手探り選挙でしたが、落選と決まって見直してみると、欠陥ばかりが目につきました。

帰郷以来、弁護士としての仕事は、時間がないためほとんどやってはいませんでした。しかし、選挙が終わると、さしあたっては政治資金を得る必要に迫られ、弁護士活動を地元で始めました。

予想していたとはいえ、落選という現実に直面し、あまりに大きな敗戦の痛手に傷つくなかで、この弁護士としての活動の再開は、経済的にも精神的にも私の立ち直りに大きな支えとなりました。この弁護士活動は、生活基盤の確保に役だったばかりでなく、社会人としての自信にもつながったのです。

夕方まで弁護士としての活動をし、その後夜半にかけて、演説会・小集会などに出かけるというパターンの生活を続けることになりました。上越の青年会議所にも入会しました。若い実業家諸氏との交流から、多くのものを学ぶこともできました。

捲土重来を期しての1977年からの2年数カ月間は、政治的にもまた一人の人間としても試練の日々でした。落選したとはいえ、3万人余の方々から支持をいただいたということは、一つの自信につながるとともに、次の戦いでは必ず勝たなければならないという責任を持ちながら活動しました。

ほぼ毎日のように開く演説会・小集会には、徐々にではありますが、確かな人数が集まるようになりだしました。

1977年10月26日夜、私が上越市のある会場で演説をしているとき、小さなメモが私に手渡されました。

「母、危篤」

数日前、私は持病のぜんそくで入院中の母を見舞ったばかりでした。とても信じられない知らせでした。しかし、演説会はまだ始まったばかりでした。演説を終え、ひととおり質問を受けてその会を終え、車をとばして1時間半後に病院にかけつけたときには、母はすでに息を引きとっていました。ただ、体のぬくもりは生きているときと同じでした。それがせめてものなぐさめでした。

政治家は親の死に目にもあえないと言われますが、本当にそうでした。

1978年には、もっと広く白川勝彦という人間を知ってもらうべく、『地方復権の政治思想』(日本地域社会研究所)という初めての著書も出版しました。初版は7,000部刷りましたが、思いのほか評判がよく、初版はすぐに売り切れとなりました。

●加藤代議士の手引きで大平派入り

1979年の新年会を各地で開いていた1月末、突然、首相官邸から電話がありました。加藤紘一代議士からでした。大平内閣が誕生し、加藤氏は当時官房副長官でした。

その前年、ある人の紹介で、私は加藤氏にお目にかかりました。加藤氏は前回選挙での私の健闘を称えたあと、

「11月の総裁選挙を控えて、宏池会では、大平総理の実現のために全力を挙げているところなので、この場で白川君の大平派入りを確約できないが、具体的な話は総裁選後に」

と、きっぱり言われました。

この時点では、大平派入りはまだはっきりと決まったわけではありませんでしたが、できなかったところで、もともと無所属、無派閥、徒手空拳の身、恐れることはないと思っていました。また、その約束も「政治家の口約束」ゆえ、あまり当てにしない方がいいと、正直言って内心あまり期待はしていませんでした。

ところが、加藤氏はこの約束に従って、先方から電話を入れてくれたのです。その後の私たちの活動の様子を聞かれた後、

「大平派として正式に君の処遇を検討したいが、その前にもう一度君の意向を確認しておきたい。その上で、前回の実績もあることだから、その気なら大平派で責任を持つ」

と率直に述べられました。私は「ぜひお願いしたい」と答えました。この日はこれで官邸を辞しましたが、その2カ月後、私は再度上京して大平首相、鈴木善幸氏ら宏池会の幹部の方々とお会いすることになります。

後援会の会長らと、3名で再度上京しました。加藤氏は、私一人を伴って、ある部屋に入ると、そこに大平首相がおられました。そこは、総理執務室だったのです。

加藤氏は「総理、お話ししていた白川君です」と私を紹介して、なぜか退席しました。私は、大平首相に促されるままソファーに座りました。

「白川さん。本当に長い間、ご苦労さまでした。これからは不肖大平が及ばずながら一生懸命応援させていただきますから、一生懸命頑張ってください。必ず当選してください」

時の総理大臣が、一介の政治浪人の青年に心を込めてこう言ったのです。私は感激しました。確かに、政治を志して人生のすべてを捧げるということは、考えてみれば「ご苦労なこと」だと思います。しかし、そういう政治家がいなければ一国の政治は良くならないのです。大平首相は、このことを理解している政治家だと思いました。私は大平首相を政治の師とすることに決めました。

あとで、加藤氏に、

「なぜ、私一人をおいて退席されたのですか」

と聞きました。加藤氏は、

「白川君、政治家同士が師弟の関係を結ぶということはきわめて重大なことであり、また、厳粛なことなんだ。あれは、大平正芳という政治家と白川勝彦という政治家が、師弟の関係を結ぶ厳粛な場なんだ。だから、私は退席したんだ」

と言いました。

私は良き師、良き先輩にお会いすることができたことを感謝しました。こうして私の大平派への所属が決まりました。孤立無縁のなかで正直いって苦労し、また不安を持っていた同志は大きく勇気づけられました。

●燃える選挙区、感激の初当選

にとって2回めの総選挙が近づいてきました。後援会組織も拡充してきました。所属問題にもケリがつきました。あとはいよいよ全組織をあげて、フル回転で選挙戦の準備をやるだけです。

浸透の弱かった上越地域に、決定的な勝利へのクサビを打ち込むべく、上越市で8月に大集会を計画しました。これは中央から宮沢喜一、加藤紘一などの政界の大物を迎えて私が初めて開く政談演説会でした。死に物狂いの取り組みの結果、会場に入りきれないほどの大成功に終わりました。ゼロから出発して4年、力強い援軍も迎えて、私は万感迫るものがありました。

8月集会で盛り上がったわが陣営の熱気は、その後の2カ月間、総選挙まであらゆる活動において爆発し続けました。8月中旬からの1カ月間は、全選挙区が総決起集会と紙爆弾によって埋め尽くされ、9月に入ると私は日々確かな手応えを感じながら、活動しました。どこの市町村で決起集会を開いても、熱狂的な支持者の群れに迎えられ、こちらが圧倒されがちでした。

大平派への所属も決まり、自民党公認を新潟県連に申請しました。しかし、県連は公認を拒否したのです。後日談ですが、自民党県連は、「白川は公認されていないにもかかわらず、ビラに大平首相、鈴木善幸氏、宮沢喜一氏などの推薦文を載せたことは党規違反だ」として、私を除名処分にしようとしました。まさに“出る杭”は徹底的に打たれ続けたのです。しかし、このようなことがあっても、もはや流れをとめることはできませんでした。

選挙戦に突入しました。泣いても笑ってもあと一日という夜、上越市の繁華街である仲町の通りを最後の街頭演説に回りました。「白川勝彦、最後のお願いにまいりました」と声をあげて歩いていくと、驚いたことに通りの両側に並んでいる飲み屋、食堂などからすさまじい数の人々が飛び出してきました。「白川、がんばれ」「応援するぞ、がんばれ」と飛び出してきたのです。私は、上越市での初めての熱烈な応援に心底胸を熱くしました。

こうして、感激の初当選を果たすことができたのです。1979年10月20日、私が34歳のときでした。

4. 燃える自由民主党代議士奮戦記──

●朝日新聞コラムニスト早野透氏の白川評

私が初当選をしたのは、1979年10月の総選挙でした。それからもう20年以上もたちます。この20年余のことを書き始めれば、それは一冊の本になります。いずれ暇ができたらまとめて書いてみたいという希望はもっていますが、いまはその時間もありませんし、本書でそう長く書くべきことでもないと思います。

『朝日新聞』に毎週火曜日に掲載される、同社コラムニスト早野透氏の「ポリティカにっぽん」というコラムがあります。2001年2月27日付の同コラムで私のことを早野透氏が大きく取りあげてくれました。朝日新聞の政治記者を長く務めたらつ腕の早野氏は、短い文章のなかで20年間の私の政治行動とスタンスをきわめて要領よくかつ的確に紹介してくれました。

これをここで引用させてもらい、若干どうしてもつけ加えたいことだけをアラカルト的に書き綴ることにします。

「出る杭」白川氏の前途は

朝日新聞コラムニスト 早野 透

江戸時代の鈴木牧之の『北越雪譜』(岩波文庫)は、越後・魚沼地方の冬の苦楽をつづった名著である。
「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水にそそぎ、雪上にさらす。雪ありて縮あり」

ここの名産は越後縮(ちぢみ)。往時は、嫁を選ぶにも機織りの技を第一、器量は次に考えた。今年、越後も雪が深かっただろうか。

もう自民党には未練はないと離党した白川勝彦氏の出身地は、魚沼地方の中心地、十日町市である。昨年6月の総選挙では、秘書の交通違反もみ消し事件などでミソをつけて落選、どうしているかと思ったら新党結成を宣言、今年7月の参院選比例区に立候補すべく走り出した。

「考えることは票とゼニ、政権にへばりついていればなんでもいいという有象無象の政治家ばかりの自民党になってしまった。そんな自民党に私が引導をわたす」

先週、東京で開かれた「囲む会」の様子を見れば、相変わらずのガッツである。「旧新潟四区で初出馬から支援してきた」という十日町市の人たちも来ていて「全国で戦えますか」と心配していた。いや、ミソはつけたが白川氏の「戦うリベラル」のブランドは確かなものだろう。

◎リベラルの旗揚げ

「出る杭は打たれる。出ぬ杭は腐る」

地盤、看板、カバンなく30歳で選挙運動を始め、保守系無所属として1976年の総選挙に割り込んで落選、79年に当選するまでのてんまつを白川氏自身が書いた『新憲法代議士』(サイマル出版会)にはこんな言葉を記している。三つ子の魂か、その後の白川氏の航路は「出る杭」の連続だった。

憲法改正は必要ないと主張し、貸しレコード店規制は自由主義に反すると論じ、スパイ防止法案を批判して、そのつど自民党内で物議をかもした。白川氏は特別に激しかったけれども、自民党がこうしたリベラルの系譜を含んでいたことが自民党の幅を感じさせ、長く政権党たりえた一因だったろう。

94年5月、国会近くのホールで「いま、強権政治と戦う」という集会が開かれたとき、白川氏が「伊達や酔狂で自由主義を唱えているんじゃない」とたんかを切り、新生党の小沢一郎氏と公明党の市川雄一氏のいわゆる「一・一ライン」政権を激しく弾劾したのを覚えている。

それからまもなく自民党は「自社さ」連立で政権に復帰して、時を経て連立相手は小沢氏の自由党と公明党に変わる。なんのことはない、白川氏が弾劾していたそのものと組んだのだから、こんどは白川氏は反「自自公」の「政教分離を貫く会」をつくってあれこれと異議を唱える。当時の自民党の野中広務幹事長らにはやっかいな「出る杭」であり続けた。

そして白川氏が若いころから兄貴分にしてきた加藤紘一氏の乱の鎮圧を見て、白川氏はこう結論づける。

「自民党は、(1)新保守主義の潮流、(2)リベラルの潮流、(3)政権党であればどうでもいいという有象無象派、の集合体だった。加藤氏の敗北はリベラル派の死滅だった」

白川氏によれば、新保守主義は「むきだしの自由主義」であって、リベラルは「社会的公正を配慮する自由主義」である。というわけで、白川氏はついに自民党の外に「出る杭」を立てることに相成ってしまった。

◎足とネット武器に

で、白川氏は参院選比例区をどう戦うか。むろん全国を足で飛び回るだろう。もうひとつの武器はインターネットである。白川氏のホームページでは、「永田町徒然草」と題して随時、政治への思いを発信してきた。その面白さは政治家のホームページとして出色のものがある。

「インターネットで選挙を戦えないとしたら、ビジネスなどにだって使えないということでしょう」と白川氏。ひとつの実験でもある。

先週末、新潟県に帰って長年の同志と語らった。

「この数日間はさすがにクタクタになりました。今日は久しぶりに選挙区の自宅で寝ます。庭は一メートル余りの厚い雪に覆われています」

ホームページにはこう結ばれている。「出る杭」白川氏、55歳。前途やいかに。

●「四〇日抗争」と「ハプニング解散」の強烈な洗礼

私が初当選した直後から、大平首相と福田赳夫前首相の権力抗争が始まっていました。後に「四〇日抗争」と名づけられたすさまじい権力闘争でした。この抗争は、福田氏を筆頭とする反主流派が先に行われた総選挙で自民党が敗北したことを口実に、大平首相の退陣を求めるものでした。大平首相を退陣させて福田氏が再び首相に返り咲くという権力闘争でした。

総選挙終了後、最初に召集される特別国会では、まず首班指名選挙が行われます。この首班指名選挙で指名を受けなければ、解散した首相は再び首相としての地位を確保できないのです。反主流派は、この首班指名選挙で大平首相に投票できないということで抗争が始まったのです。

この総選挙でいったいどのくらい敗けたのかというと、解散前の自民党の議席数は249でしたが、総選挙で獲得した議席数は248でした。これに追加公認を加えると、国会召集時には、自民党の議席数は253でした。

私もその名誉ある(?)5名の追加公認組の一人でした。前述したように、私は自民党の公認は申請したものの、私の選挙区から立候補した現職の自民党代議士の実の父である自民党参議院議員が、自民党県連会長であったために妨害され、結局、公認はもらえず、無所属での当選だったからです。

40日間の主流派と反主流派の攻防がなされましたが、妥協はされず、最後は衆議院本会議場での決着ということになりました。第一回の投票では、大平氏が135票、福田氏が125票。ともに過半数に達しなかったため決戦投票が行われ、大平氏が138票、福田氏が121票で、大平氏が再任されました。決戦投票では野党は全員白票を入れるといういまから考えれば牧歌的というか、自民党絶対優位の時代でした。

この首班指名選挙が、私が最初に出席した衆議院本会議でした。強烈な洗礼でした。大平首相は再任はされましたが、この四〇日抗争によって生じた党内の亀裂に悩まされ続けました。そして、翌年5月16日、野党が提出した内閣不信任案の採決が行われた本会議に、福田氏をはじめ反主流派のメンバーが欠席したために不信任案は可決され、これを受けて大平首相は解散を打ち、その戦いの最中に心筋梗塞で倒れ、不帰の客となりました。

4年かかってやっと当選したのに、わずか7カ月で解散。本当に衆議院というのはすごいところだと思いました。最初は国民から厳しい目で見られた選挙でしたが、大平首相の◆去が契機となって自民党は284議席を確保し、私も二度めの当選をトップで果たすことができました。わずか7カ月間の1年生代議士生活でしたが、このような激しい政治を見せつけられたことが、私の政治家としての原体験でした。

●金権政治とは一線を画して

私が当選したとき、田中角栄元首相はすでにロッキード事件の被告人で、無所属の衆議院議員となっていました。しかし、党内最大の派閥を率い、党内に最も大きな影響力をもつ政治家でした。私の政治の師・大平正芳氏とは盟友関係にあり、私は田中氏と同じ新潟県選出の衆議院議員。こんなことが重なったため、田中氏が脳梗塞で倒れるまで、「田中問題」は私にとって深い意味を持つ大きな問題でした。

前にも書いたように、私は田中氏とは個人的にも何度も会っています。もちろん、田中氏の演説を聞く機会も何度もありました。私の選挙区を含めて新潟県全体の政治を仕切っていました。

田中角栄という政治家は、一人の政治家としてはきわめておもしろい魅力のある政治家です。人間として好きか嫌いかといえば、好きな政治家です。しかし、ロッキード事件の被告人であるということと、金権的な政治家であるということを、意識しないで田中氏とつき合うことは私はどうしてもできませんでした。田中氏は人間としてはおもしろいし、好きなタイプの政治家であり、同じ新潟県選出の衆議院議員ではありましたが、公的にはどうしても一線を引いてつき合わなければならないと思い、そうしてきました。

それが、白川は反田中だと、世間特に田中氏の周辺にいる政治家たちが言う原因となりました。党内に最大の勢力をもつ派閥ですから、党の部会や政務次官の人事のときなどで、いろいろ妨害されたことは事実です。しかし、そういうことを私はあまり苦にしませんでしたから、実は大したことはなかったのです。

1984年12月、新潟県選出の自民党国会議員の忘年会が開かれました。その席に田中氏も出席しました。もちろん、田中氏が逮捕されたとき、法務大臣を務めていた稲葉修代議士もいました。その忘年会の席で田中氏が私にこう言ったのです。

「白川君。周りの者は、君のことをガタガタ言うが、私はね、全然気にしてなんかいないから心配いらん」
「それはありがとうございます」

と私は答えました。しかし、変なことに、まったく同じことをその忘年会の席で田中氏が3回も言うのです。私は、よほどそのことを気にしていたためかと思い、

「田中先生、そんなこと、私もまったく気にしていませんから、ご放念ください」

と言いました。

田中元首相が脳梗塞で倒れられたのは、それから1カ月後のことでした。医学的なことは詳しく知りませんが、記憶力抜群と言われた田中氏が、同じ会合でまったく同じことを3回も言うことを聞いた者として、そのころから脳梗塞の前兆があったのかと、その後ずっと思っていました。 私にはこういう思いがありました。田中氏は、田中氏としてその時代を一生懸命に生きてきたのだ。田中角栄という政治家は間違いなく戦後民主主義の時代が生んだ政治家である。しかし、田中氏から30年後に政治活動を始めた私には、私なりの戦後民主主義の道がある。金権政治は、自民党を必ず亡ぼす。私は、私の時代に合った戦後民主主義の道を歩まなければならない──。

●奇妙な因縁

田中派は、150人に迫らんとする大派閥となりました。金力もあり、権勢もある田中氏のもとに、多くの政治家がスリ寄っていきました。しかし、私はそのような「田中的なもの」と決別することが私たちの時代の使命であると考え、それだけは人が何と言おうと貫き通したいと思い、また貫いてきたつもりです。子供が親を、親子としての情はあっても、いつかは乗り越えるように……。

田中氏でなければ夜も日も明けないと言っていた人ほど、田中氏が病気に倒れると竹下登氏のもとに走りました。経世会ができ、それが分裂して小渕派となり、いままた橋本派が党内最大派閥として復活し、「経世会支配」の自民党と言われています。懲りない面々です。この人たちが自民党をダメにしてきたのだと私は思います。

人を見ることの天才だった田中氏ですから、きっといまの私に対して、「周りのヤツは、ガタガタ言うが、俺はそんなこと全然気にしていないから心配するな。お前は、お前の信じる道を堂々と歩け!」と言ってくれるものと思います。

戦後民主主義があったから政治家になれた。そして、その時代を思い切り生き抜いた政治家だからこそ、もう一つの戦後民主主義の道を愚直に歩んでいる私を、深いところで理解していてくれたのだと、私は勝手に解釈しています。

今回の決起にあたり借りた砂防会館の一室は、田中氏が田中派を起こしたときの田中派事務所の会長室なのだそうです。私は田中氏とはこれまで述べたような関係ですから、田中派の事務所など一度も行ったことがなかったので全然知らずに決めましたが、荷物をすべて運び入れたとき、ビルの管理人からそのことを知らされました。ちょっと複雑な気持にはなりましたが、これも何かの因縁と考え、いまは気に入ってこの部屋で元気に仕事に励んでいます。

●スパイ防止法案に異議あり

「スパイ防止法」問題は、私にとって本当に辛い戦いでした。

1985年6月、自民党は「国家機密に係わるスパイ行為等の防止に関する法律案」を通常国会に提出しました。しかし、この法案は、国民やマスコミ、野党の強い反対を受けて、結局、同年12月の臨時国会で廃案となりました。

そこで、自民党としては、国民の理解と協力が得られるような法案にしなければ、とうていこの法案を成立させることができないと考え、これを全面的に見直すために、新たにスパイ防止法制定特別委員会を設置、松永光代議士が委員長に就任し、私もメンバーになりました。

そして、1986年10月ごろ、松永委員長が中心となって一つの案をまとめました。その案に対して、私が反対意見を開陳しようとしたところ、「白川君、意見があったら文書で出してくれ」と言われたのです。

自民党では、反対意見があったら自由に部会や委員会で発言できるというのが原則でしたから、文書で出せというのはずいぶん乱暴な言い方です。しかし、ここで党の案として決まってしまうわけではなく、いずれ政策審議会や総務会で論議されることになるだろうから、そのときのために、どういう点が問題なのかがわかるようにしておいた方がいいだろうと判断し、意見書を出すことにしたのです。

どうせ意見書を出すのなら、一人ではなく数人の方がいいと思い、私が気心を許せる人に相談をして、12人の連名で意見書を提出しました。そのなかには、鳩山由紀夫氏(現民主党党首)や熊谷弘氏(民主党幹事長代理)、佐藤栄佐久氏(現福島県知事)などがいました。

この意見書を自民党の全議員に配布したところ、大勢の先生方から「非常に良く問題点がわかった。自分も同感だから頑張ってくれよ」と励まされた一方で、私を含めてこの意見書に名前を出した議員は、右翼団体から大変な嫌がらせを受けたことも事実です。

しかし、当時の自民党には、このような嫌がらせにも屈しない強い意志と、良識を持ったリベラリストがたくさんいたのです。ところが、そんな自民党のリベラリストたちは殲滅(せんめつ)され、死滅させられてしまいました。

●第四の権力のすごさを肌で知る

これまで確かに、私は自民党の執行部や大勢に迎合することなく、言うべきときには発言し、なすべきときには行動してきました。そんな私を見て、「白川さん。大変でしょうね。でも頑張ってください、応援しますから」と多くの方から言われてきました。

しかし、当の本人は意外に難しく考えず、そんなに肩に力を入れず、自然にやってきたつもりです。まず第一に、自分の信念を貫くことは、それ自体決して辛いことでも苦しいことでもないからです。私のような人間には、信念に反することに従わなければならないことの方がよほど辛いのです。

また、私の言っていることが自民党のなかでは少数意見であっても、自民党の外に出れば、すなわち国民の間では多くの人々が支持しているという確信があったからです。そういうことですから、私や私たちのやることを概してマスコミは好意的に報じてくれることが多かったと思います。これも大きな援軍でした。

このような経験が多かった私にとって、2000年3月に起こった秘書の不祥事をめぐる報道は、まったく逆のことを思い知らされました。事案は、私の秘書が後援者に頼まれて、後援者のスピード違反のもみ消しを警察に依頼したというものです。もちろん私の秘書は、その容疑を全面的に否定していました。しかし、このことがほとんどの全国紙のトップ記事として連日報道され、テレビでも大きく取り上げられました。

「多くの政治家の事務所がごく普通のこととしてやっていることなのに、どうしてこのような大事件として報道されるのか」と同情もされました。また、「この事件が明るみになり、このように大きく報道されたのは、創価学会・公明党に対して政教分離論争を挑んだ仕返しだ」と言う人も多くいました。

でも、私は弁解するつもりもありませんし、同情に甘えるつもりもまったくありません。悪いことは悪いことであり、その報いは当然のこととして受けなければならないと思っているからです。

しかし、この事件を通じて、マスコミがどのように報道するかによって、政治家の政治生命など簡単に抹殺されるということを、私は肌で知りました。

私は自分の選挙情勢について、定期的に世論調査をしていました。この事件報道により、私の支持率は15%落ち、ライバル候補の支持率が12%上がってしまい、十数%もリードしていた私が完全に逆転されてしまったのです。選挙の2〜3カ月前にこのような大報道がなされては、候補者としてはもうなすすべはありませんでした。

こんなことがあり、2000年6月に行われた総選挙で11万4,404票を得ましたが、力及ばず私は落選しました。一票を投じていただいた有権者には申し訳ありませんでしたが、正直言ってやむを得ない結果でした。マスコミが第四の権力といわれるゆえんを肌で感じました。

●IT時代を予見した『網の文明』

私の20年間の自民党代議士としての仕事は、良くも悪くも「自民党の改革」の戦いでした。何度も書いたように、「この日本に真の自由主義政党をつくりたい」というのが私の政治家としての願望だったからです。

そんななかで、1982年ごろから、私は加藤紘一代議士の頼みもあって、通信政策を勉強することになりました。そして1987年11月に郵政政務次官になりました。このときこそ私が政策遂行に専念した1年2カ月でした。いつも党内の政治的な何かの運動にたずさわり、そのリーダーとなることの多かった私にしてみれば、きわめて落ちついた日々でした。5〜6年にわたって一生懸命勉強してきた郵政行政──特に通信政策を中心に一冊の本をあらわしました。『網の文明』(文藝春秋)という本です。

私は、これからは情報を中心とした時代がやってくる。また、日本のように国土も狭く資源の乏しい国は、高度情報通信立国を考えてゆかなければならないと考えました。この本のなかでそのことを私は提言しています。インターネットとかITなどといった言葉がまだない時代でしたが、今日のようなIT時代が来ることを予見しています。

最近になってこの本の存在を知った専門家から「十数年も前に今日の姿をよくこれだけ予測していましたね」と誉められますが、それなりの確信と自信をもって当時書いたことは事実です。

政治家のなかでは、誰よりもこの分野については勉強したという自負だけはもっています。そして、その先駆者として、私は日本で最初のインターネット政党というものをつくってみるつもりです。とんでもないところで生きてくるものだと思っています。

ちなみに、通信の秘密について私は深い危惧(きぐ)をもっています。コンピューターが発達し、莫大なデータを蓄積・処理できるようになったために生じた新しい問題です。通信の秘密──通信の自由を保障するということは、いろいろな自由のなかで、「思想・良心・信教の自由」のすぐ外延にある最も基本的な自由です。通信の自由がなければ、思想や信教の自由が保障されても、結社をつくることも言論や出版も思うようにできないからです。

通信傍受法(盗聴法と言う人もいます)の制定を機に、通信の秘密──通信の自由を守ることの重要性に多くの人々が関心を持っています。これは正しい問題意識だと思います。この分野には、私なりに深い思い入れがありますので、通信の自由を守り、発展させるためにも、具体的な提言をし、実現していく決意です。

自治大臣時代のことは、この本でもいくつか書きました。私は何も政策が嫌いなわけではないのです。本当は、そういうことに専念したいと思っているのですが、その前提の政権のあり方がしっかりしないとき、そこに汗を流さなければ真の政治家とはいえないのです。また、どんな立派な政策を立案しても、それを実行できる政権基盤がない限り、それは単なる紙に書いた政策で終わってしまうのです。ここのところがわからない自称政策通が多いというところが、政策不在の日本の現状なのです。一日も早く自分の好きな分野の政策を、若い政治家や優秀な官僚諸君とつくり、実行する日が来ることを一番願っているのは私だと、自負しています。


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