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聖徳太子は実在しなかった!?

08年02月12日

No.706

『古事記』や『日本書紀』は、冷静に考えれば古い部分は神話的である。どの民族にも国の成り立ちや理想などを綴った神話がある。『古事記』や『日本書紀』を神話として、ロマンをもって楽しく語れる時代が早く到来しなければならない

私は昨日の永田町徒然草No.705「大御心」で、このように述べた。どうも“古い部分”だけではないようである。かなり新しい部分にも“神話的”なものがあるという。東京新聞の社説「週のはじめに考える 書き換わる聖徳太子像」は一読に値する。私も認識を新たにさせられた。

聖徳太子紙幣の遍歴

聖徳太子は私たちに非常に馴染みのある古代の偉人であろる。紙幣にも長く使われてきた。私が最初に見た聖徳太子の紙幣は百円札だったと思う。私の子供のころは百円札が最高額の紙幣だったと思う。その後、一万円札、五千円札、千円札が登場したが、最高額の紙幣の肖像は常に聖徳太子だった。それだけ聖徳太子に対する国民の想いは、高いものがあったからなのであろう。聖徳太子に関する逸話は、誰もが満足できるものがほとんどであった。それがまた聖徳太子に対する敬愛の念を強いものにした

その聖徳太子は実在が確認されていない人物だというのである。それは実証的歴史学の結論だというのである。このことを知らない人には大きな驚きであろう。私もそのひとりであった。門外漢の私が下手に要約しても、間違う虞(おそれ)があるから、詳細は原文に譲る。いちばんのポイントは、「誇張や粉飾があったにしても、実在と非実在では話の次元が全く違ってしまいます。ところが、積み重ねられた近代の実証的歴史学の結論は『聖徳太子はいなかった』で、どうやら決定的らしいのです。」という記述であろう。

「十七条憲法については、既に江戸後期の考証学者が太子作ではないと断定し、戦前に津田左右吉博士が内容、文体、使用言語から書紀編集者たちの創作などと結論、早大を追われたのは有名です。」という記述もある。津田左右吉博士が早稲田大学を追放されたことは日本史でも習ったし、“学問の自由”との関連で憲法の本でも読んだが、津田博士が聖徳太子は実在していなかったことを主張していたと書かれていなかったので、私は知らなかった。

それでは実在しなかった聖徳太子のモデルは誰か。社説は、次のように記述している。「国語・国文学、美術・建築史、宗教史からも実在は次々に否定され、史実として認められるのは、用明天皇の実子または親族に厩戸(うまやど)王が実在し、斑鳩宮に居住して斑鳩寺(法隆寺)を建てたことぐらい。聖徳太子が日本書紀によって創作され、後世に捏造(ねつぞう)が加えられたとの結論が学界の大勢になりました。」

日本書紀の編纂と任務

日本書紀は養老四(七二〇)年完成の最古の正史で、その編纂(へんさん)過程に律令(りつりょう)体制の中央集権国家が形成されました。隋・唐の統一と東アジアの大動乱、それによる大化の改新や壬申の乱を経て、古代社会の「倭(わ)の大王」は「日本の天皇」へ変わったとされます。

大変革の時代の日本書紀の任務は誕生した天皇の歴史的正統性と権威の構築です。それが、高天原-天孫降臨-神武天皇-現天皇と連なる万世一系の思想と論理、中国皇帝にも比肩できる聖天子・聖徳太子の権威の創作、書紀は政治的意図が込められた歴史書でした。

たしか魏志倭人伝に出ている金印は福岡県の志賀島(しかのしま)で発見されているが、邪馬台国がどこにあったかというと古代史の大きな謎としていまなお関係者が激しい論争をしている。縄文時代というのは、私たちが日本史で習ったのとは大分違っているらしい。弥生時代の先史としての単純な認識はどうも違うらしい。私の郷里十日町市の笹山遺跡で発掘された火炎式土器は、縄文時代のものとしては唯一の国宝として指定されている。

国宝に指定された火炎式土器が発掘されて笹山遺跡は、私の実家から2キロくらいのところにあり、最近注目されている里山の麓である。悪がきだった私は、中学生の時には友達とよく遊んだところである。もちろんそこに貴重な遺跡があることなど、当時は誰も知らなかった。土砂崩れで4500年前の縄文集落が埋没したらしい。十日町市は豪雪地域であるだけでなく、地すべり地域でもあるのである。地震や雪崩や土砂崩れは、昔も今も私たちの集落を一瞬にして崩壊させるのである。

千年を超えた執念

日本書紀が展開した思想と論理は千三百年の現実を生き現代に引き継がれました。憲法と皇室典範は「皇位は世襲」で「皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と定めています。

しかし、万世一系は子孫を皇位にと願う持統天皇のあくなき執念と藤原不比等の構想によって成り、その父系原理も日本古来のものとはいえないようです。建国記念の日に永遠であるかのような日本の原理の由来と未来を探ってみるのも。

社説はこのように結ばれていた。なかなか意味深長である。古代にもイデオロギー戦があり、これが現在にも繋がっている。これからは古代史にもっと関心をもちたいと思う。三連休の後なので今日から “さぁ、仕事だ” と勇んでいるのに、古い話で恐縮している。しかし、昨日の話に続いてどうしても今日書いておきたいと考えたのだ。専門外のことなので今日はいささか疲れた(笑)。

それでは、また。



  • 08年02月12日 07時22分AM 掲載
  • 分類: 1.徒然

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