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平和主義をめぐる憲法状況

13年06月06日

No.1578

理想のないところに進歩はない

本稿から“いよいよ”昭和憲法の平和主義について述べる。いよいよと書いたのは、本誌の読者は私がなぜ憲法9条から憲法改正問題を論じなかったのかと怪訝に思っていた方が多かったのではないかと想像するからである。そのような怪訝をあえて承知で、私は基本的人権からまず述べた。それは私の憲法に対する基本的な考え方だし、いわゆる護憲運動なるものがもっている問題点を指摘したかったからである。憲法9条は確かに護憲運動にとって最大の錦の御旗であるが、実は憲法改正を目論む勢力にとっても最も大きな梃子(てこ)になっているのである。

誤解を招かないように憲法9条についての私の態度・見解をまず示しておこう。基本的人権の尊重・国民主権・平和主義は、昭和憲法の三大原則と呼ばれている。この三つの原則に優劣はないといわれている。それはそれでいいのだが、わざわざ第97条で

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に堪え、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」

と規定していることを考慮すると、基本的人権の尊重にいちばん重点があると考えていいのでないかと、私は思っている。

戦争は、究極の人権侵害をもたらす。いかなる高邁な理屈をつけようと、戦争で人権が侵害されるのは、か弱い一人ひとりの個人である。戦争を遂行する権力者ではない。これは、ブッシュ大統領が自由のために行う正義の戦争と称したアフガン・イラク戦争でも少しも変わらなかった。

何百万、何千万の血が流された戦争の反省にたって、昭和憲法に戦争放棄の規定が設けられた。世界で初めてのたった一つしかない条文である。これを幼稚な理想主義と嗤うことは簡単である。しかし、命懸けでこの理想を追求しようという悲壮な決意をもっている憲法を、平気で嗤う者にいかなる悲壮な決意があるというのか。その者にいかなる理想があるというのか、それを聴きたい。理想のないところに進歩は絶対にない。(本誌2007年1月号の拙稿を参照)

理想としての非武装中立論

日本国憲法前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

憲法第9条

1   日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2   前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

昭和憲法の平和主義を規定する前文と9条をそのまま引用した。いくら訳文が悪いといっても、これらをそのまま読めば、非武装と戦争放棄を宣言しているとしか読むことはできない。護憲の中心に立ち、最大の勢力を占めていた社会党が非武装中立論を主張していたのは、憲法の条文からいえば極く自然なことである。

自衛戦争も否定した吉田首相

憲法制定議会といわれている1946年(昭和21年)6月28日の衆院本会議で、共産党の野坂参三氏の「自国防衛のための戦争は正義の戦争である。憲法改正案には戦争一般でなくて、侵略戦争の放棄を明記すべきだ」との質問に、吉田首相が「正当防衛や防衛権による戦いを認めることは、戦争を誘発する有害な考えだ」と答弁したことは良く知られているところである。

しかし、1950年(昭和25年)朝鮮戦争の勃発を機にGHQの指令で警察予備隊が創設され、保安隊を経て1954年(昭和29年)自衛隊となった軍事組織がわが国に存在していることは、厳然たる事実である。2005年度の自衛隊の人的構成は、自衛官約24万人・即応予備自衛官約1万人・予備自衛官約5万人の合計約29万人、予算規模は世界第4位の4・8兆円である。

自衛のための戦争の否定から今日のような自衛隊の保持に至るまでには、これを進めようとした政府とこれに反対する勢力や国民との間に多くの戦いがあったことは事実である。その最も大きな政治な戦いが1960年(昭和35年)の安保闘争であった。

当時私は中学3年生であったが、新潟県の農村でも安保改正の是非を大人たちが口角泡を飛ばして議論していたのを目撃している。また革新勢力の大きな台頭に過敏になった右翼青年が浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した場面を私はテレビ中継で目撃した。戦後民主主義の内実を規定する各種運動の大きなひとつが、憲法9条をめぐる戦いであった。また国会における憲法論争の3分の1は、憲法9条をめぐって行われたといっても過言ではない。

自衛隊や在日米軍の存在は、司法の場でも争われた。伊達判決のように違憲とする裁判例もあったが、これに対して最高裁判所は1959年(昭和34年)12月16日「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。しかし、他方で日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」とした(いわゆる統治行為論で違憲審査権を放棄した)。

憲法状況を直視しなければならない

この論文は戦後政治史を総括することを直接の目的にしていない。また国会における9条論争をまとめるだけでも大分量となる。従って、結論だけを述べよう。憲法問題を論ずるときに大切なのは、ある事実について主権者たる国民がどのような認識をしているということである。主権者である国民の憲法問題に対する認識を抜きにして観念論的に違憲だ合憲だと論じてみても現実にはあまり意味がない。平和主義をめぐる諸問題についてもイェーリングがいった“権利のために闘争”という視点がどうしても必要なのである。

それでは現在の自衛隊について、わが国の国民は現在どのような認識をもっているのだろうか。これは単純な事実問題である。憲法改正についてどのような立場であろうが、この事実から目を背けることはやめた方がいい。
 世論調査というものは、設問の仕方やそれが行われる状況によって異なる結果が出てくることは確かである。しかし、最近の世論調査技術は著しく進歩していることも認めなければならない。

このような前提の下に各種の自衛隊に関する世論調査をみると、現在の自衛隊を認めるというのが70〜80%の国民の認識である。自衛隊を認めるということは、違憲の存在としてみていないということであり、具体的にいえば国民の生活に密接関係する健康保険料や年金保険料などの負担が増える中でも5兆円近くの予算を防衛費にあてることを認めているということである。

この事実が9条や自衛隊に関する憲法状況である。こうした事実・状況をまず直視しなかればならない。そして冒頭に述べたように、このことが憲法を改正しようという勢力が憲法改正は可能であると判断する材料となっているのである。憲法改正に反対する者は、本来平和を求める筈の国民の多くがなぜそのように判断するのか、怪訝に思っているのではないだろうか。そして戦後民主主義とは一体何であったのかと懐疑的になっている人もいるのではないかと思っている。

自衛隊についての国民の認識

私は自民党総務局長を務めた関係で、世論調査というものを勉強した。いや勉強せざるを得なかった。政党が行う世論調査というのは、第三者的に候補者の当落を予想するものではない。誰を候補者にするか、決定した候補者が強いか弱いか、どうしたら候補者を当選させることができるかということを探るために行うのである。従って、世論調査の結果だけではなく、調査したデータを分析する能力がなければ、はなはだ高いものになってしまう。

自衛隊を認めるという70〜80%の国民認識がどのようなものであるかということを正しく分析する必要がある。ここのところを見間違うと憲法改正派も改正反対派も政治的に深い傷を政治的に負うことになる。

各種の世論調査が国民に問うているのは、「現在の自衛隊についてどう認識しているか」ということなのである。それでは「現在の自衛隊」について国民はどのように認識した上で、これを認める(合憲)と判断しているのだろうかということが重要なのである。

どう読んでも戦力を保持してはならないとしか解釈できない憲法の下で存在している自衛隊が、特殊な軍事組織にならざるを得ないということは普通の常識をもった国民ならば誰でも考えていることである。一様ではないと思うが、多くの国民は「現在の自衛隊」についてある共通の認識をしている筈である。その認識をまず正しく把握しなければならない。

憲法9条をめぐる議論の核心

長年にわたる憲法9条をめぐる激しい論争や闘争が、「現在の自衛隊」の実態を規定している。およそこの世の中にはまったくのゼロなどというものはないのだ。憲法が定める平和主義は、人類の理想であることは誰もが認めるところである。この理想を求める運動の効果や成果がゼロなどということはあり得ない。

これに反して現在の自衛隊を保持し、さらにこれを増強しようとする勢力には、愛国者を装っているが不純な動機や目的がある。「命懸けでこの理想を追求しようという悲壮な決意をもっている憲法を、平気で嗤う者にいかなる悲壮な決意があるというのか。その者にいかなる理想があるというのか、それを聴きたい」といったのは、そういう意味なのである。

わが国の自衛隊というのは、法的にみても軍事的にみても世界にある一般の軍隊とは、明らかに異なる特殊な軍事組織であることは疑いない事実である。そのことを国民は確りと認識した上で現在の自衛隊の存在を認めているのである。憲法改正を目論んでいる勢力は、その特殊な点が我慢ならなくて変えようとしているのである。憲法を改正すれば、現在の自衛隊とは明らかに異なる軍事組織が誕生することになる。

憲法9条をめぐる議論の核心は、ここにある。この点に関する国民の判断はそんなに幼稚でもないし、危険でもないと私は確信している。悲観も楽観も危険である。憲法9条や自衛隊をめぐる議論は、現実に基づいて根気強く行う必要がある。次回はそのことを述べることとする。

* この小論は、月刊誌『リベラル市民』平成19年4月号に掲載されたものである。

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  • 13年06月06日 07時52分PM 掲載
  • 分類: 5.憲法問題

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