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ポツダム宣言受諾と昭和憲法の制定

13年05月14日

No.1572 

安倍首相が改正しようとしている憲法は、もちろん現在のわが国の憲法である。この憲法の正式な名称は、日本国憲法である。1946年(昭和46年)11月3日に公布され、翌年(昭和22年)の5月3日に施行された。この日が憲法記念日とされ、祝日になっている。

この憲法は、1889年(明治22年)に制定された大日本国帝国憲法の改正手続に基づいて制定された。国家の統治の基本を定める法としての憲法は、わが国にはこの二つしかない。どちらも紛れもなく日本の憲法である。にもかかわらず名称が異なるのは、わが国の呼称が変わったためである。以下、大日本帝国憲法を明治憲法と呼び、日本国憲法を憲法または昭和憲法ということとする。

わが国の呼称が変わったのは、政治体制が根本的に変わったためである。明治憲法下では、天皇主権であった。昭和憲法下においても天皇は存在しているが、国民主権である。従って、大日本「帝国」と呼ぶことはできなくなったのである。

明治憲法と昭和憲法は、あらゆる面において対照的である。昭和憲法の規定の意味を探るためにも、明治憲法を参照することは大切なことである。昭和憲法は、明治憲法が定める改正手続に則って制定された。しかし、それは形式だけであって、両憲法との間には法的連続性はないというのが多数説である。一般的にいって、憲法の制定は大きな政治的な大変動や原因があってなされる。自由主義憲法の源流されるフランス憲法はフランス革命があったからであり、アメリカ憲法は独立革命戦争に由来する。

明治憲法の制定は、わが国の明治維新と呼ばれる政治の大変動と近代国家として憲法を作らなければならないという内的・外的な必要性があったからである。明治政府の大きな政治課題であった不平等条約改正を実現するためには、それは不可欠だった。

ポツダム宣言の受諾の意味

昭和憲法を制定しなければならなかった最大の原因・理由はなんであろうか。それは、ポツダム宣言の受諾である。ポツダム宣言とは、1945年(昭和20年)7月26日アメリカ・イギリス・中国の三国(後にソ連も参加)によって、日本に対して発表された戦争終結に関する宣言である。わが国は、同年8月14日これを受諾した。

ポツダム宣言は、全部で13項からなる。昭和憲法の制定の原因・理由を理解する上で、また靖国問題のようにいまなお尾を引く「戦後問題」を考える上で参考になるので、降伏の条件的な内容となっている6項から13項までの全文を少々長くなるが掲載する(原文の送り仮名は片仮名であるが、読み易いように平仮名にし、接続詞なども漢字を平仮名に書き換えた。また読み易いように句読点を適宜つけた)。

ポツダム宣言 (1ないし5項は省略)

  1. 我等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞しこれをして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず。
  2. 右の如き新秩序が建設せられ、かつ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、聯合国の指定すべき日本国領域内の諸点は吾等のここに指示する基本的目的の達成を確保するため占領せらるべし。
  3. 「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。
  4. 日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし
  5. 吾等は日本人を民族として奴隷化せんとしまた国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし。
  6. 日本国はその経済を支持し、かつ公正なる実物賠償の取立を可能ならしむが如き産業を維持することを許さるべし。ただし日本国をして戦争のため再軍備を為すことを得しむるが如き産業はこの限りにあらず。右の目的のため原料の入手(その支配とはこれを区別す)を許可さるべし。日本国は将来世界貿易関係への参加を許さるべし。
  7. 前記諸目的が達成せられ、かつ日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立せらるるにおいては、聯合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし。
  8. 吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動における同政府の誠意に付き適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求する。右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。

「(降伏以外の)日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす」とは、激しいではないか。しかし、それが戦争というものであろう。よく無条件降伏といわれるが、このポツダム宣言は一方的な日本の義務だけでなく12項のように連合国側の義務も書かれている。憲法学者の芦部信喜教授は、同宣言は不完全ながらも連合国と日本の双方を拘束する一種の休戦条約の性格を有するとする。

明治憲法下で、基本的人権が尊重されたとはとてもいがたい。それは明治憲法に内在する不完全な基本的人権の規定に原因を求めることができる。民主主義的傾向の復活強化に対する障碍を除去しなければならず、また基本的人権の尊重を確立しなければならない義務を負ったわが国としては、新しい憲法を必然的に制定しなければならないことになったのである。

多くの国々では革命の結果、憲法が制定された。革命には多くの血が流されることが多い。基本的人権も国民主権も血をもって購われたとよくいわれる。わが国の基本的人権も国民主権も、革命ではないが何百万・何千万人もの血が流された戦争の結果として産まれたものである。血の色に違いはない。流された血の叫びも同じだと思う。戦争放棄を定めた9条というフランス憲法にもアメリカ憲法にもない独特の条項があるのは、昭和憲法の起因に由来するのである。昭和憲法を論じるとき、この重たい歴史の事実を忘れてはならないと私は思っている。

国体護持の呪縛

若い人々は、「国体の護持」などという言葉を知らないであろう。昭和になった頃、わが国が戦争体制を準備し、戦争への道を突き進んでいく時、あらゆる分野で水戸黄門の葵の印籠のように使われた言葉である。

「国体」とは、

  1. 天皇に主権が存することを根本原理とする国家体制
  2. 天皇が統治権を総攬するという国家体制
  3. 天皇を国民のあこがれの中心とする国家体制

という三つの異なる意味に用いられた。1と2は法学的概念、3は道徳的・倫理的概念である(芦部教授)。

ポツダム宣言の受諾に際し、もっとも問題となったのがこの国体の護持ということであった。確かに同宣言には基本的人権に関するような明確な言葉で、国民主権たるべしという文言はない。しかし、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」(第一条)、「天皇は神聖にして侵すべからず」(第三条)とする明治憲法の下では、基本的人権が尊重されるわけがない。実際に明治憲法の下で、思想弾圧や人権侵害は止まることがなかった。戦時下においては、国民の自由や人権は特高警察と軍靴によってなきに等しかった。

国体の護持を疑う雰囲気も見識も全くなかった日本国政府は、「(ポツダム宣言は)天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざるとの了解のも下に受諾す。帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ、本件に関する明確なる意向が速に表示せられんことを切望す」と連合国に対して申し入れた。連合国側は、その了解の当否には触れることなく、ただ「降伏の時から日本の天皇および政府の統治権は、降伏条件を実施するために必要とみとめる措置をとる連合国最高司令官に従うべき」ことと、「日本の最終の政治形態は、ポツダム宣言のいうところにしたがい、日本国民の自由に表明された意思によって定めらるべき」ことを、アメリカのバーンズ国務長官の名をもって回答してきた。

ポツダム宣言の受諾は、「これ以上戦争を続けて無辜の国民を苦しめるに忍びないから戦争を終結せしめたい」との天皇の“聖断”によって決まった。国民主権や基本的人権についてのこのような政治家や官僚たちの認識不足が、憲法制定過程でいろいろ問題を引き起こすことになる。

連合国のわが国に対する占領は、いわゆる間接統治であった。占領目的の達成のために連合軍最高司令官(アメリカのダグラス・マッカーサー元帥が就任)が全権を持ちかつ直接行使するが、日本の統治機構は基本的にそのまま残されており、制限は受けるものの統治権を行使することができた。従って、占領期間中も内閣はあり、また現在の国会にあたる帝国議会もそのまま存在し、また連合国最高司令官の制限下にはあったが実際に機能していた。

もちろん連合国最高司令官によって廃止された国家機関(例えば軍隊や内大臣府や特高警察など)はある。また連合国最高司令官が発した命令や指令に反するため失効した法律や勅令は数多くある。

ポツダム宣言を受諾し無条件降伏をした鈴木内閣は゛終戦内閣゛として8月15日総辞職した。その後内閣は東久邇宮内閣(8月17日組閣)、幣原内閣(10月9日組閣)、第一次吉田内閣(翌年5月22日組閣)と目まぐるしく変わる。東久邇宮内閣でも幣原内閣でも憲法改正は避けられないとの認識のもと準備が始めた。東久邇宮内閣では近衛文麿国務大臣が、幣原内閣では松本丞治国務大臣がその任にあたった

しかし、先に触れたが国体護持の呪縛からはなかなか抜け切れなかった。明治憲法のままでポツダム宣言の実行は可能と考える政府指導者がほとんどだった。幣原内閣では、10月25日憲法問題調査会が設置され、委員長に松本国務大臣があてられた。顧問には清水澄・美濃部達吉・野村淳治の三氏、委員には宮澤俊義・清宮四郎・川村又介ほか数名が委嘱された。その名称が示すように憲法問題の調査を目的にし、憲法改正をあえて前面に掲げなかった。

マッカーサー草案の提示

憲法調査委員会は、12月26日大改正と小改正の二つの場合を想定して、それぞれの試案を作成することを決めた。松本委員長は1946年(昭和21年)1月9日私案を提示した。これを基本として憲法改正要綱案として整備し、2月8日総司令部(GHQ)に提出された。

しかし、2月1日調査委員会案が毎日新聞によってスクープされてしまった。それは、天皇統治権総攬の原則には変更を加えないという内容のものであった。

それまでにマッカーサー最高司令官は何度か首相などに憲法の自由主義化が必要であると伝えていた。それだけに日本政府の考え方を知り、それはポツダム宣言などに合致するものではないと判断し、2月3日マッカーサーは憲法改正草案を総司令部において作成する意思を固め、ホイットニー民政局長にこれを指示した。その際、憲法改正の必須要件として次の三つの基本原則を指示した。これが“マッカーサー・ノート”と呼ばれるものである。

  1. 天皇は国の元首である。
  2. 国権の発動たる戦争は廃止する。
  3. 日本の封建制度は廃止される。

総司令部による起草作業は急ピッチで行われ、2月13日にはいわゆる「マッカーサー草案」として日本政府に手渡された。政府はその内容に意表をつかれ仰天したが、当時の国際情勢と内外の民主主義的世論に抗しきれず、2月21日幣原首相はこれを受け入れることをマッカーサーに表明した。

政府はマッカーサー草案を基礎に、総司令部との折衝を通じて若干の修正をして、3月6日「憲法改正草案要綱」として公表した。天皇も草案採択の勅語を発した。明治憲法には、「将来この憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命をもって議案を帝国議会の議に付すべし」(73条)とある。憲法改正の発議権は天皇にしかなかったからである。

ところで、1945年12月18日衆議院が解散され、その選挙は翌年の1月21~22日の間に行われることが発表された。しかし、衆議院議員選挙法の改正により婦人参政権の付与と選挙年齢の引き下げによって有権者数が約3倍に増加したことや戦後の混乱が収まらなかったことなどから、選挙情勢いまだ熟せずという世論が起こり、総司令部は選挙期日の大幅延期を命じた。総選挙が行われたのは4月10日であった。女性も参加した戦後初の総選挙で新しく誕生した衆議院が、わが国における実質的な憲法制定議会となった。

圧倒的賛成多数で可決・成立

憲法改正案を衆議院は約2ヶ月の審議を通じて若干の修正・増補を行った後、8月24日賛成421・反対8で可決し、貴族院に送付した。貴族院では約1ヶ月半の審議を経て一部修正して、10月6日賛成298・反対2で可決した。翌日衆議院は、貴族院の修正に賛成424・反対5で同意した。帝国議会を通過した改正案は枢密院で天皇臨席のもとに全員の賛成をもって可決され、天皇の裁可を得て、11月3日「日本国憲法」として公布された。そして翌年5月3日施行された。

このように昭和憲法は、手続的には明治憲法の改正手続を忠実に踏んで制定された。しかし、両憲法の原理・原則は大きな違いがあり、果たして改正ということで昭和憲法を制定できるのかという憲法学上の争いがある。私もこの考え方にたつ。

しかし、法学的にはそうであったとしても、戦後のあの混乱期、このような方法で新しい憲法を制定したことは、いかにも日本的なやりかたであったし、政治的には意味のあることだったと思う。それは、昭和憲法の定着にも役立った。

いずれにせよ、わが昭和憲法は、終戦から1年ちょっとで制定され、2年をおかずして施行された。昭和憲法をもったわが国は、これにより劇的に変わることになる。戦後民主主義の高揚である。

ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した時から、昭和憲法の施行までの慌ただしい時期を、ごく簡単にしかしある部分はかなり掘り下げて書いたのは、これから憲法改正問題を論ずる上で必要だからである。いずれの国でも、憲法は極めて政治的なものである。憲法が制定される過程の政治的出来事を抜きにこれを解釈することも、論ずることもできない。

最後にもう一つだけ付け加える。マッカーサーがいわゆるマッカーサー・ノートと呼ばれる条件を付して草案を作らせたのは、ごく近い時期に発足が予定されていた極東委員会において、天皇の戦争責任や天皇制廃止を主張する国々が予想されたからである。マッカーサーとしては機先を制して既成事実を作っておく必要があったのである。

* この小論は、『マスコミ市民』平成18年12月号に掲載されたものである。

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  • 13年05月14日 08時00分PM 掲載
  • 分類: 5.憲法問題

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