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地方復権の政治思想

白川勝彦

序にかえて    篠原 一 (東京大学教授) 

第1章 人間政治へのめざめ

 個人にとってよい社会とは「こんないやな娑婆(社会)、もう住みたくない!」と叫びたくなる日も、私たちが日々の生活を営んでいるうちには、必ずあるものです。
こうした心の中でぐっと噛みしめる一言葉のなかに、政治の原点があるのだ、と私は考えています。

 生きとし生けるものとして、人生に対し、希望や欲求を持たない人間はいないと思います。ただ、私たちの希望や欲求がべそう簡単に実現されるかというと、厳しい現実の壁につきあたって、なかなかうまくいかないのが通例です。ときには、現実の社会が、ただひたすらに私たちの希望や欲求を、冷酷に打ち砕くことにのみ血道をあげているのではないかと思いたくなるようなこともあります。

 私たちの希望や欲求のなかにも、現在の社会の規範からいって、否定しなければならないものもあるでしょう。しかし、そうでない希望や欲求は、それがかなえられることの多ければ多いほど、その社会はよい社会だということができると思います。

 政治の第一の使命は、それぞれが希望と欲求に身をふくらました数多くの人間の集合体である社会にあって、それぞれの希望や欲求をどう実現化し、具体化させていくかという調整機能にあると考えています。この機能がうまくはたらけば、すなわち政治がうまくいけば、その社会では、より多くの人々のより多くの希望や欲求が実現されるということになるのです。

 だから、私は、「人生を、人間を語らずして、政治を語ることはできない」と思ってきましたし、現在もそう思っています。私たちがどんな人生をおくりたいか、それをぬきにしては政治は語れないのです。そして、人生について真剣に考える人は、政治についても真剣に考えざるをえないと思うのです。

 私は高校一年生のときから、「生きる」ということを考えはじめ、悩みはじめるようになりました。青年期にはだれもが一度は経験する、自我のめざめというものです。

 そのときから、自分のことぱかりではなく、自分の生きている社会というものに関心を持って、深く観察するようになり、考えるようになりました。

 以来、人生と政治は、いつも私の心を離れないやっかいな問題でした。しかもそれは、「まだ私の考えがまとまっていませんから、しばらく待ってください」といって、やりすごしてしまうわけにはいかない問題なのです。私の事情には関係なく、人生の問題や政治の問題は、遠慮容赦なく追ってきます。自分の心のなかでこの問題に対する解答を用意できなくとも、私たちが行動する上では、一応なんらかの決断をしなければなりません。

 それが、人生であり政治です。だから、人生についても、政治についても、私たちは常日頃から考えを深めていく努力をしなければならないと思います。それにしても、私たちはこのどちらの問題に対しても、独善に走るきらいがあるように思われます。

人間の幸福と政治

 人間はだれもが、幸福を追求する権利を持っています。しかし、なにが幸福というものであるかということについては、あまり議論がなされていません。そんなことは、個人が自由に決めるべきことで、政治や社会が立入るべきではないという、二言居士の批判が当然予想されます。

しかし、そうでしょうか。

 これは、私が母親の皆さんとの座談会で承った話ですが、紹介いたします。

「自分のうちでは、子どもにむやみやたらに物を買ってやるのではなく、節約とか倹約の心を教えたいと思っているのです。しかし、まわりの子どもたちが、学校から帰ると毎日こづかいをもらっているために、自分の子どもだけにやらないでおくというわけにはいかないんです」

 こづかい銭だけではなく、自転車だ、オートバイだ、ラジカセだということになってしまいます。親としたら、まだ時期が早い、不必要なものだと思ってみても、まわりの家庭の子どもが全部持つようになると、自分の子どもにだけ買ってやらないわけにはいかず、意に反して買うことになるのだそうです。

 このような事情のもとで買ってやってるのは、じっはその家庭の母親だけではないのです。まわりの、それぞれの家庭でも同じように思っているのです。予どもたちにとって、なにを与えることがほんとうの幸福なのであろうかということを、親が、学校が、そして地域社会がよく考えて決めてやっていないから、こういうことになってしまうのです。

 それは、大人の世界についても同じことがいえると思うのです。なにがなんでも、生きとし生けるものとして、すべての国民に保障されなければならない幸福の追求があります。また、場合によってはきりすててもよい幸福の追求もあるはずです。いろいろな希望や欲望のうち、なにがたいせつな幸福であり、なにがきりすててもよい幸福であるか、たいへんむつかしい問題ではあります。しかし、議論は大いになされるべきです。 一人々々は、自分の生活のなかで、自分の人生のなかで、そうした選択と決定をやっているはずです。一人々々、が個人的にやっていることを、どうして地域社会で、国民的規模でやってはいけないでしょうか。価値観の多様化の時代だから、国家統制につながるから等々、いろんな反論が予想されます。私には、どうもそうは思われません。

 概して、日本人は冷静で真面目な議論があまり得意ではないようです。デリケートな問題になればなるほど、やりたくてもできないのです。国民がどのような幸福の追求の権利を持ち、それを政府がどのような手段と制度によって保障し、応援するかということは、きわめてたいせつなことです。これが、まさしく政治そのものです。

 人生に対する意見を持たずして、政治を語る資格なしと、…ここでも私は力説したいのです。いかに個人の人生と政治とが密着しているものか、人が多く集まれば集まるほど、価値感が多様化すればするほど・その翌の関係は深言、濃密になっていくのです。自分の幸福を追求する上で、もはや政治をきりすてては考えられなくなっているのです。

能力を開化させる

 自分が天から与えられた能力や才能を開化させてゆく過程が人生である私は、自分にこういいきかせて、これまでの人生を必死に生きてきました。

 自己の能力や才能の開化は、そのこと自体が自分にとって大きな喜びとなります。しかし、それ自分だけではなく・他人の家庭、知人、地域社会、国家にとっても喜びとなったり、役立つたりしなければなりません。この二つの条件が満たされたとき、自己の能力や才能の開化のための努力は、苦しいけれども人生のもっとも大きな喜ぴになると私は思います。

 こんなふうに書きますと、白川という男はずいぶんとストイックで、とてもつきあいきれないとの印象を与えてしまっていることかと思います。ご安心ください。大きな声てはいえませんが、私は、そんな聖人君子とはほど遠い人間で、飲む・打つ・買うの三道楽は大好きなほうです。これまで、結構やってきましたし、いまでも誘惑をうけると、ついふちふらとするほうです。

 だからといって、朝から晩まで、飲む・打つ・買うという道楽三味の生活をしたいとも思いません。こうした道楽は、しょせん人生の潤滑油なのではないでしょうか。真面目な生活を毎日続けているからこそ、ときたまやるぶんには楽しいだけのことなのではないでしょうか。

 私は、そんなものを人生の本質だなどといいたくありません。私がときたま誘惑に負けて、道楽にはしったからといって、「白川はダメな男だ。いうことと行うこどが一致していない」といわれては困ります。

 このような注釈つきで、私の人生の潤滑油の部分に目をつむっていただけるなら、私は本質的には人生を真面目に生きていると思っておりますし、これからも真面目に生きたいと思います。また、それが一番人生に喜びを感じられる生き方だと思うのです。能力や才能を開化させる――こんな表現ですと、ずいぶん固苦しい感じがしますが、そう固苦しく考えないでください。

 野球やゴルフがさかんに楽しまれているようです。私の地方でも、早朝野球がよく行われていて、朝の四時、五時のまだ夜も明けきらないてうちからグランドに集まっている人々の姿をよく見かけます。また、忙しい仕事のスケジュールをやりくりして、ゴルフ行きを相談しあっている方々の話もよくききます。

 野球やゴルフなどスポーツに共通していえることですが、練習でも試合でも肉体を激しく動かさなければならないつらいものです。にもかかわらず、どうしてみんな一生懸命スポーツをやるのでしょうか。相手を負かすことが楽しいからでしょうか。勝者の喝采をうけ、優越感にひたることが目的なのでしょうか。もっとも、草野球や素人のゴルフ・コンペには、喝采をおくる観客もおりませんけれど……。

 筋肉を鍛え、筋肉を有効に使う技術を収得する。やれないことをうまくやりぬく、といった自己の肉体の能力をひきだし開化させてゆく喜び――これがスポーツをやる喜びではないでしょうか。

 親からもらった五体満足の肉体をコントロールし、よりすばらしいものにしてゆく。そうすれば、また仕事をやるにも気力が湧いてきます。スポーツひとつとらえてみても、人生の喜びというのは、対価や報酬や賞賛を望まずに汗水をながすところにあるのだということがわかるかと思います。私のいう、自己の能力や才能を開化させるとは、こういうことをいいたいのです。

 人によっては、それが研究の道である場合もあるでしよう。また、人によっては、新たな事業を創設していくといった場合もあるでしょう。自己の持てる能力と才能を最大限に発揮するために努力することは、人生に取り組む上で、もっとも重要なことだと思います。

政治の課題としての生きがいと労働

 人間は、生きるために働くのか、働くために生きるのか――よくいわれることですが、ときどき、どちらなのかわからなくなる問題です。

 だれもが、生きるために、それに必要な生活の糧を得るために働いているのだと思いたいところです。食うためにのみ働く、だから働くために生きているというのでは、人生、夢も希望もないじゃないかということになります。しかし、生きるということと働くということは、本当に矛盾し、対立することなのでしょうか。もし、生きるということが、人生を楽しむということで、趣味や道楽三味に耽ることだとしたら、たしかに働くということと対立することになります。でも、生きるということは、そういったことばかりではないはずです。

 人間は社会生活を営む動物であり、衣食住といった生存のための基本的な条件を充足するためには、その社会のなかで個人々々がなんらかの労働を分担しなければなりません。労働の分担は、資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、社会の一員として生存するためにはやらなければならないことです。

 この労働がいやだというのでは、怠け者以外の何者でもなく、社会を構成する一員としての資格がないのですから、社会から追放されても仕方がありません。社会生活の利益は享受するくせに、その負担を免れようというのでは話になりません。

 人間は、社会を離れて一人で生活することはできません。だから私は、人間だれもが社会の一員として、働く義務があるのだといいたいのです。このように、生きるということと働くということは、重なり合う部分がかなり大きいということができます。

 社会の生産性が低い時代では、衣食住という生存のための基本的物質(生活資料)を得るために費される労働がほとんどで、生きるということと働くということの重なり合う度合は大きかったわけです。しだいに生産性が上がるにつれて、その重なり合う度合は減少します。

 極めて高度な生産性を得るにいたった現代では、生活資料を得るための労働はごく一部となり、限りない人間の欲望を満たすべき文明をめざして、多大な労働がふり向けられるようになりました。このため、生産の分業化と多様化が進み、いろんな職業が生まれました。

 どんな職業を選ぶか、資本主義社会では自由であることが原則です。これまでにない新しい職業をみつけて始めることも自由です。ただ、資本主義社会では、労働に従事したからといって、必ずしも生活が保障されるわけではありません。労働の成果が商品として、市場で売れないものであっては、その労働は社会的に無意味なものであるということですから、労働の対価は得られません。これが原則です。

 たとえば、文学青年が大変な苦労と膨大な時間を費して、何百枚、何千枚という超大作の小説を書いたとしても、それが読まれるに値するものでなかったとします。すると、青年がその小説を書きあげるに要した労働の対価は、ゼロということになるのです。.もちろん、売れない小説をどれだけ書こうと、そのこと自体は青年の自由です。自由主義社会の原則です。

 大きな会社になりますと、一人々々の労働について、文学青年の場合のように、ストレートに社会的な評価を下すことはできません。しかし、個々の評価はできないとしても、会社全体としての労働が、あまり社会的有益性のないものであったり、社会の水準と比較して生産性の低いものであれば、その会社はいずれは欠損を出したり、さらに進めば倒産という結果で評価されます。

 このように、資本主義社会では職業選択の自由があるといっても、市場コントロールという見えない支配があるために、しょせんは個人の能力に応じたものにならざるを得ません。このことは、社会主義社会でもある程度は同じです。もし、労働の結果に対しての客観的尺度の評価がなされなりれば、その社会の生産性は落ち、機能は低下し、貧しい社会になるか、破綻をきたすことになるでしよう。

 生きるために働くことは、最底限度不可欠です。そして、職業の選択が能力に応じて自由であるしいう社会に生きている私たちには、生きることと働くことをそれほど対立したものであるととらえなくてもいいように思います。

 私たちは、もっと楽観的に労働というものを考えてもいいのではないでしょうか。自己の能力にもっとも適した職業を選択したのだから、その能力を思いきって開化させ、社会にとって有益な仕争をすることこそ、まさに生きることそのものだと考えたらいいのではないでしょうか。

 そう考えるにこしたことはないが、日々の生活の実感はとてもとてもという方も多いことだろうと思います。しかし、この現実を理想に近づけることこそ、政治ではないのか。生きがいと労働についての問題こそ、私はもっとも重要な政治の課題であると考えています。

アメリカ旅行が“政治”へ導く

 私は少年時代から、夢の多い多情多感な人間でした。子どものころあこがれた職業もいろんなもの、かあります。

 広大な畑にトラクターを駆る農場主。新しい合成物質をつくりだす化学者。「ベン・ケーシー」のテレビの影響か、脳外科医。映画を見ることが好きだったことから、自分でも映画監督をやりたいと思ったこともありました。ときには主役を演じる俳優にあこがれたこともあります。もっともこれは、顔に自信がなかったため、すぐ他の職業へのあこがれに転向してしまいましたが・・・。まだまだあります。倉田百三に影響されて、宗教家・小説家を夢みたこともあるのです。

 その時々、私は私なりに真剣にあこがれ、そうなるためにはどうしたらいいのか考え、悩んだものでした。

 十日町高校の二年生のときでした。新潟県のロータリー・クラブの交換留学生に選ばれて、約二ヵ月間でしたが、アメリカヘ遊学できるという機会を得ました。
 昭和三十七年の当時、今日のような海外旅行ブームの時代とはちがって、田舎からアメリカに行くことはたいへんなことでした。私は、東京ですら修学旅行で一回行ったきりの高校生だったのです。

 アメリカはケネディ政権の時代で、ニュー・フロンティアが叫ばれ、国全体が活気を呈しているときでした。アメリカのロータリアンの家庭で生活し、アメリカの明るさと繁栄ぶりを目のあたりにして、強烈な印象を焼きつけられました。

 アメリカは、どうしてこんなに豊かなのであろうか。解放感にあふれた、自由というものの雰囲気を、これほど身にしみて感じたことはありませんでした。それに比べて、日本はなんと貧しいのだろうか――高校生だった私の頭を、こうした疑念がいっぱいに渦巻いたのでした。このとき、政治を勉強してみたい、と強く思ったのです。

 政治を勉強するには、政治家になるにはどうしたらいいのか。大人の世界から漏れ聞こえる話などで、高校生の私が考えたのは、東大の法学部に進むのがどうやら一番いいらしいということでした。それまで、受験ということを意識して勉強したことはありませんでしたが、アメリカから帰った高校二年生の夏休み以後、東大法学部を入試の目標にして、本格的な受験勉強の態勢に入りました。

 受験の方は運よく一回で成功し、あこがれの東大法学部に入学することができました。家庭の経済状態を考えれば、大学進学自体が無理だった私は、日本育英会の特別奨学生となって月額八○○○円の給付を受けるとともに、生活費のかからない学生寮に入りました。

 東大駒陽寮は寮生七五〇人もかかえる大きなものでした。入学二ヶ月後には、早くも私は寮副委員長になっていました。学生寮は学生運動のメッカともいうべき場で、目の前で展開される学生運動に対して、血気盛んな青年としては無関心でいるわけにはいきませんでした。こうして、私にとって学生運動は、私の学生々活の大きな部分を占めていくようになったのです。

 大学は四年生ともなると、卒業後の進路がそれぞれ決まってきます。官僚になろうと公務員試験をめざしているもの、弁護士になろうと司法試験の準備をしているもの、あるいは早くも一流商社への入社、か内定したもの、はたまた学者になるべく大学院進学をめざすものなどさまざまです。

 七月に入り、私のまわりの友人たちの進路もしだいに確定してくるころになり、私は初めて、
「人間が生きるためには、お金がもらえる職業につかなければならなかったんだ」と気がついたのです。

 それまで、自分の職業について、全然考えなかった加けではあリません。学生時代がそうであったように、政治活動に携わりたいとの希望は持っておりました。けれども、代議士の秘書になるとか、労働組合の書記局に勤めるとか、政党の事務局員になるとかといった具体的なことは考えたこともありませんでした。

 一般学生に対して、「諸君、現代の社会はこれでよいのだろうか。現在の学生々活をもっと実りあるものにするために、共に立ち上がろうではないか」などと訴えてきた学生が、自分の将来設計すら立てていなかったということを思い出すたびに、なんと自分が地に足がつかない頭でっかちであったことかと、いまでも私は吹き出しそうになるのです。一般学生というのは、学生運動の活動家が、活動家でない学生を呼ぶときの言葉です。ずいぶん思い上がった、失礼な呼称ではないでしょうか、”一般”の反対語は”特殊”ですから、活動家は”特殊学生”ということにでもなるのでしょうか。

 民間会杜に勤めるというような気はさらさらなかったのですが、それでも念のためということで会社回りをして、三つばかり就職先を決めておきました。それも、結局は決心がつかず、十一月には全部断りました。

 政治の勉強をしながらお金が貰えるような仕事があったら、すぐにでもそこに就職したのでしょうが、私にピッタリくるそういった仕事はありませんでした。仕方なしに、その年には卒業はせずに、一年留年することにしました。

 この一年間に、人生や生活のことを、とくに真剣に考えました。そして、次のように決めたのです。

一、生きて行くためには、なんらかの職業について働き、収入を得なくてはならない。だから、なんらかの仕事はする。

二、しかし、人間が職業を選択するときは妥協してはならない。人生は限られている。その大部分を捧げることになる職業が、生きがいの持てないようなものならば、たとえいくらお金になる仕事であっても、余暇をどう有意義に過そうとも、人生を真剣に生きたとはいえないし、自己に忠実に生きたことにはならない。


三、だから私は、自己の命をかけても惜しくないという仕事がみつかるまで、フリーでいることにしよう。

 ずいぶんと荒っぽい三段論法ですが、とにかく私は職業をこのように考えて、しばらくは態度保留の決定をしたのです。そして、その後も自分の考えた職業観に従って、忠実に生きてきました。結婚をしなかった理由も、いまだ人生の一番たいせつなことを決めていない男が、妻や子を持つというのは、いささか無責任ではないかと考えたからです。

政治への登竜門

 留年を決意すると同時に、私は司法試験を受けることにしました。

 大学四年間、毎月八○○○円の特別奨学金を貰っていたのですが、留年するとそれもなくなります。当時、学生寮にいると月に二万五〇〇〇円もあれば、欲しい本もある程度自由に買うことができ、そう苦しいと感じないで生活することが可能でした。もっとも、その当時は、就職した友人たちの初任給が二万五〇〇〇円から三万円くらいの時代でした。奨学金の八○○○円が切れることは、私にとって大きな収入源をなくすことです。

 そこで、私は実家の兄に留年することを了解してもらうと同時に、学資の援助も頼みました。そのとき、受かっても受からなくてもよいから、司法試験の勉強をすることを条件につけられたのです。法学部の学生ですから、法律の勉強をすることに対して抵抗があったわけではありません。ですから、兄の条件は飲むことにしました。

 こうして、大学の四年生の十月に、私は友人に司法試験を受けることを宣言し、図書館に通い始めました。それまでキャンバスのあちこちを朝から晩まで学生運動にとび回っていた人間が、殊勝にも急に図書館通いを始めたものですから、私を知っている学生たちは唖然としたようです。

 翌年の七月まで、私は一生懸命に勉強しました。そして、司法試験は無事パスすることができました。

 勉強しているころから法律家という仕事に、それだけではどうも命をかけて打ち込めるような気持ちにはなれませんでした。司法試験をパスしても、その後二年間司法研修所に通わなければ、裁判官や検事、弁護士になることはできません。司法試験に合格すると、受かった翌年の四月から司法研修所に入所するのですが、それを許さない事態が発生しました。

 昭和四十三年九月ころより東大紛争の火が燃え上がったのです。昭和四十四年一月は安田講堂の攻防が展開されたのです。卒業が遅れたこともあって、私は翌年に司法研修所に行かずに、学士入学をし、いま一年大学に留まることにしました。だから私は、六年間の大学生活を送ったのです。六年間も学生をやると、たいがいあきてきます。大学を卒業し、さらに二年間、学生々活の延長のような司法修習生として過し、ようやく弁護士となったのは二十六歳のときでした。

 弁護士になった私は、最初、若林法律事務所に勤めました。ここは、銀座に事務所をかまえるごく普通の法律事務所です。所長の若林秀雄先生は温厚で仕事熱心な方でしたし、先輩の安西愈先生は労働省に長く勤めておられた、たいへんな努力家で、いろいろと法律の仕事を教えていただいたものです。

 いま考えてみると、仕事もそれほど多くなく、ずいぶんとめぐまれた環境で、弁護士業のイロハを学ぶことができたものと感謝しています。

 弁護士という仕事は、それ自体はやっていて面白いし、他の仕事に比べたら収入もよかったのですが、いまひとつ仕事に打ち込むことができませんでした。もともとが法律家になろうということで司法試験を受けたわけではありませんから、弁護士となっても燃えるものに欠けていたようです。独身の気軽な所帯のわりには、給料はたくさん戴いていましたから、毎晩のように銀座や新宿で遊んでいました。しかし、日々の仕事に心のかいというのを持てない私には、一見優雅で気軽な弁護士生活をしていても、少しも楽しいものではありませんでした。人間というものは、使命感の持てない仕事をやった場合、楽しくないばかりかフラストレーションがたまってくるものです。これといったあてがあったわけではありませんが、とにかく法律事務所を辞めることにしました。やる気のない仕事をして、ただ漫然と日時を費すことは、一番いけないことだという気がしたからです。若林法律事務所には、二年間勤務したことになります。

ゼロからの出発

 昭和五十年一月一目から、ふたたび浪人生活が始まりました。それから九カ月あまり、自己の人生に悔いのない仕事とはなにか、煩悶を重ねていました。その結論が、政治家の道を選択するということだったのです。

 政治の常識だということで、地盤・看板・鞄の三バンが政治家になるためには必要だ、といわれています。

 「地盤」というのは選挙地盤のことで、先輩議員が引退して後継者に、あるいは親が息子に継がせたりというのが普通です。「看板」というのは、すでになにかで名が売れていて、その有名であることを利用するということです。市長をやっていたとか、大蔵省の次官をやっていたとか、テレビの司会者をやっていたとかいうのがそれです。「鞄」というのは選挙資金のことで、本人が政治活動や選挙活動に使える資金が調達できる資産家の場合であったり、あるいは企業や団体などの有力なスポンサーがついているとかいったケースがあります。

 私の場合は、この三バンのどれ一つとしてありません。徒手空拳でやろうというのです。まさにゼロからの出発です。

 政治家たらんとして活動を始めて以来、私には日曜日も祭日もありません。一日一五時間以上も活動しています。働けと働けと楽にならざりです。しかし、私はいまほど精神的に充実している時はありません。

 自己が命をかけるに足る生活を見つけ、実践しているということは、どんな金銭的報酬よりも、どんな社会的賞賛よりも価値があることだと思います。職業とは、そういうものでなければならないと思います。

 現在、私は政治活動の対価としての報酬を得ていません。しかし、国会議員になることをめざしており、国会議員になればそれなりの報酬を得るわけですから、広い意味では職業といえるでしょう。

 私の場合、政治家をめざして、あるいは政治家として活動するエネルギーを、かりに弁護士業に費したとしたら、政治で得る何倍もの報酬が得られることは明らかです。しかし、自己のすべてを賭けてもよいと思える職業をやれるということは、なにものにも代えがたい生きがいだと思います。精神的にも肉体的にも現在の生活はきっいけれども、充実感のある毎日を送っていることは確かです。職業と人生とは、そうでなくては嘘だと思います。

 冒頭から、私が自分なりに生きがいを持てる人生を見つける過程を書いてしまいました。私の場合、あまりにも回り道をしすぎたと思っております。みんながみんな、こんなまわり道をしていたらたいへんです。自分なりに本当に生きがいのある人生を見つけるということは、そんな簡単なものではないということは、あえて私の体験を通して訴えたいと思うのです。

 他人の生き方を見ていると、あまりにも妥協が多すぎるのではないかと感じられることがよくあります。些事についての妥協をいっているのではありません。職業の選択、就職先の選択とか、結婚、信仰、政治的立場など、人間にとって、人生にとって重要な問題について、ずいぶんと安易な妥協がなされていると思われるのです。

 これらの問題は、ちょっと考えたからといって、簡単に結論がでるものではありません。悩みに悩み、煩悶に煩悶を重ねたあげく、最終的にはインスピレーションのようなもので決めざるをえなくなるものではないでしょうか。

 だからといって、最初から考え悩む努力を捨てて、その場のなりゆきや行きがかりから決めてよい問題ではありません。理性的に考えて、悩むだけ悩んだ上で、慎重に結論を導きだすべきです。

 たとえそのために、一年や二年の回り道をしたとしても、長い人生のうちでは、そのことのほうがよい結果を生むのではないか、と私は思います。


 つづく

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